現代の経済に関するメモ

・現代はあらゆることにリアリティーがない。信仰心も弱く、共同体は解体され、会社ではいつでもクビにされかねない部品でしかなく、家族はバラバラである。近代化が進むとともに、人生の選択肢は増えたが、その代わり人生に対する希望が失われていった。

資本主義は、カネを稼ぎ、自己利益を追及する人間像を描いたが、果たして人間はそういった「大きな物語」のない人生に耐えられるだろうか。
新自由主義に至っては、「主義」とついてはいるものの、体系的イデオロギーも世界像も放棄している。とにかく人間も企業も自己利益で動くんだ、それが当然なんだ、余計な規制などするなというばかりである。しかしそれは過去も未来も考慮しない、ニヒルで刹那的な生き方ではないだろうか。貨幣経済への盲信は禁物である。
・井上日召『日本精神に生よ』
「人間生活の殆んど全部が経済的生活となつて来た現代は遂に黄金万能の世となつて大義は将に滅せんとし、被圧迫階級の人々までが資本主義に中毒して利己一点張となり互ひに嫉視排擊し合ふ様になつたので要するに右傾派は個人闘争、左傾派は階級闘争の連続で何れにしても人類の理想は出現せんのである」
・河上肇は大学卒業後、農科大学の講師について横井時敬の指導を受けた。そのときに書いたのが『日本尊農論』である。河上肇はそこで農本主義的議論を展開していた。河上の原初は農本主義であった。

「金鉄党」対「ふいご党」①─『愛知県の歴史』より

 尾張藩の金鉄党とふいご党について、塚本学・新井喜久夫著『愛知県の歴史』は、以下のように書いている。
 〈天保十年(一八三九)、一一代の藩主斉温(なりはる)の死去とともに、田安家の斉荘(なりたか)、実は将軍家慶の弟が尾張藩主をついだが、これは幕府からのおしつけ養子の感じがつよかった。
 将軍家における御三家のように、尾張藩にも支藩があつた。そのなかで美濃高須藩四谷家の義恕(よしくみ、のち徳川慶勝)が、ちょうど幕政における徳川慶喜に似た役割をもってきた。将軍家からのおしつけ養子に反発する一部藩士たちは、この義恕に大きな期待をかけたのである。そういう彼らのなかから金鉄党とよばれる党派が成長していき、それがやがて尾張藩の尊攘派になっていった。
 天誅組の松本謙三郎(奎堂)が刈谷藩家老の家に生まれたのにたいし、尾張藩の金鉄党はおもに下級の藩士たちを主体としていた。藩校であった明倫堂の学者・学生グループ、番士すなわち軍事専門家たちといった連中で、家格よりも自分の技能を自負している人びとのあつまりであった。彼らは斉荘の相続に反対し、江戸藩邸の執政、とりわけ幕府からの御付家老の一人で、犬山城主であった成瀬家の私曲を非難し、さらに嘉永元年(一八四八)には、米切手の引き換え問題をとりあげ、中・下屏藩士たちの利益を擁護するため陳情するなど、活発なうごきをみせていく。
 将軍家相続事件の場合とちがうのは、外国問題がからんでいたいかわりに、対幕関係とむすびついていることであろう。したがって金鉄党が成長していく過程は、そのまま幕閣にたいして尾張藩の自主独立をもとめるうごきこすなわち幕府独裁制にたいする批判的な勢力の成長となっていった。
 斉荘のあとをその弟慶臧(よしつぐ)がつぎ、嘉永二年(一八四九)、慶臧が病死すると、またしても幕府は斉荘の弟への相続をはかった。これにたいして、いまや一部の町人や村々の名望家たちをもふくんだ金鉄党の反対運動がおこなわれた。そして、慶臧が病没して二カ月たつと、彼らの待望する四谷家若殿の尾張藩襲封が実現する。一四代尾張藩主徳川慶勝であり、その動向は以後、中央政界に大きな影響をあたえていく。
 この慶勝の襲封は、徳川慶喜が将軍職につく一七年前のことである。慶喜が将軍となったときには、すでに安政年間に彼を推した勢力が尊攘派と公武合体派とにわかれていたのにたいし、慶勝は藩内の幕府独裁反対派の与望をになって登場することができた。尾張藩の藩内抗争がそれほどはげしいかたちをとらず、また下級藩士を主体とした金鉄党も、いわば微温的な勤王派として、慶勝の公式合体策をささえる態度をとるようになったのは、さしあたってはそうした事情によるであろう。
 だが、尾張藩に内部抗争がなかったわけではない。安政四~五年の幕政をめぐる争論では、慶勝は当然、改革派のがわにたち、井伊政権によって隠居・謹慎を命じられる。したがって、慶勝が名実ともに尾張藩主であったのは、一〇年にみたない歳月であった。そしてこの慶勝の引退は、ただちに藩内での金鉄党の勢力後退となってあらわれた。慶勝が藩主の地位をしりぞきながら、やがて実権を回復していったころ、〝金鉄〟をもとかすという意味をもたせた〝ふいご党〟と名のる一党が反対勢力として登場してくる。そして勢いのおもむくところ、尾張藩の二大名門で、ともに創業以来、御付家老としての権威をほこった成瀬・竹腰両家がこの抗争にまきこまれていく。はじめ、竹腰家とのむすびつきをはかった金鉄党は、竹腰家のそっけない態度に失望し、以後、成瀬家との接近をつよめていくのである。たよりとした重臣にみすてられた藩内改革派の中・下士が、一藩改革のわくをつきやぶっていくのが、他藩にしばしばみられる傾向であったのに、尾張藩ではもう一方の重臣とのむすびつきをはかるという方向をたどったのである〉

田尻隼人『渥美勝伝』より

田尻隼人『渥美勝伝』の中に「戯曲桃太郎維新旗」が収録されている。その一節を引用する。

皆さん、わが国、今日の状態は、あらゆる方面から観察して、それが決して、有り得べき真の日本の姿ではないといふことを、痛感せずにはゐられないのであります。今や、仏教、儒教、キリスト教以外に明治初年以来、わが国に発達してきたところの物質文明あり、社会主義あり、資本主義あり、自由主義あり、自然主義あり、それらはもちろん、新時代のおのづからなる要求によつて発達したものであり、従つて採るべき長所の多々あつたことは云ふまでもないのでありますが、いづれも西洋流の個人主義に立脚するものであり、わが国情、伝統を抹殺して顧みないものがあるのであります。その余毒の及ぼすところ、つひに日本人が、日本人として持つべかりし本来のイノチ、タマシヒ、ミコトを失つてしまつたのであります。広瀬中佐は―おれの頭には、世に二つとない尊い守り本尊をいただいてゐるといはれたさうでありますが、キリスト教徒は、この守り本尊は、キリストの信仰であるといひ、仏教徒は釈迦の信仰であるといひ、儒教においては、これを仁の道であるといひます。またカントの流れを汲むものは、粛然たる良心の絶対命令であるといひます。唯物史観を奉ずるものは、功利的価値に帰せんとするものであります。各々おのれの信ずる主義、信仰の上に、これを持ち来ることは当然であつて、敢て怪しむに足らぬのであります、が、然し、日本民族本来の信念によりしますれば、この世に二つとない守り本尊なるものは、まことに畏れ多きことでありますが、 天皇陛下の大御稜威以外の何ものでもないのであります。(中略)日本臣民たるものが、この尊い守り本尊を私することは断じて許さないのであります。それと同様に、政治家が、政治を私し、財閥が財産を私し、労働者が労働を私しすることの許されないのは当然であります。(222~223頁)

「依王命被催事」の継承─近松矩弘から徳川慶勝(文公)へ

 尾張藩初代藩主の徳川義直(敬公)の尊皇思想は、彼が編んだ『軍書合鑑』末尾に設けられた一節「依王命被催事(王命に依って催される事)=仮にも朝廷に向うて弓を引く事ある可からず」に集約される。その詳しい内容は歴代の藩主にだけ、口伝で伝えられてきた。その内容を初めて明らかにしたのが、第四代藩主・徳川吉通(立公)である。死期を迎えた立公は、跡継ぎの五郎太が幼少だったので「依王命被催事」の内容を、侍臣・近松茂矩に命じて遺したのでる。それが『円覚院様御伝十五ヶ条』だ。
「依王命被催事」の精神は、尾張藩勤皇派に脈々と受け継がれ、維新に至る十四代藩主・徳川慶勝(文公)の活躍となって花開く。以下に挙げる近松矩弘の事跡(『名古屋市史 人物編第一』)には、その精神の継承が跡付けられている。
「矩弘、性質温克弁慧、世々軍学の師たり。其高祖茂矩、藩主吉通の遺命を蒙り、藩祖義直の軍書合鑑の末に「依王命被催事」とある一条、其他十一箇条に就いて勤王の主義の存する所を世子に伝へんとす。世子早世して其事止む。矩弘に至りて其遣訓を守り、之を慶勝に伝ふ。爾来田宮如雲・長谷川敬等と謀り、遺訓を遵奉して勤王の大義を賛し、力を国事に尽す

「人と為り剛毅権貴に屈せず、直言して憚らず」─荒川定英についての『名古屋市史 人物編 第一』の記述

 昭和9年に刊行された『名古屋市史 人物編 第一』(川瀬書店)は、「名門」「侯族」「執政」「勤王」「僚吏」「武勇」「忠烈」などに分類して、功績のあった人物について簡潔にまとめている。
「勤王」には、田宮如雲など32人の人物を収録している。その中に、荒川定英も収められている。
「荒川定英、旧称に弥五衛(初め弥五右衛門、又、昇)羊山と号す。尾藩大番の士坪内繁三郎の弟にして、弥五八と称せり。安政三年、荒川氏を継ぎ大砲役並となる。後使番並・東方総管参謀・岐阜奉行等に歴任し、足高を合せて廩米二百五十俵を給はる。明治二年七月、監察となり、尋いで名古屋藩権少参事に任じ、民政権判事・市政商政懸りとなる。三年、藩庁懸りとなり、翌年、聴訟断獄・市井商政科を掌り、廃藩置県に至りて罷む。
定英、人と為り剛毅権貴に屈せず、直言して憚らず。頗る材幹あり。然れども素不学なるを以て、維新の際、他藩の士と応接するに、貴藩といふべきを御弊藩といひ、当時藩中に笑話を遺せり。明治十一、二年の交、盛に民権自由の説を鼓吹し、後国会開設の請願に奔走し、愛国交親壮を起して庄林一正と共に之が牛耳を執れり。少より俳諧を嗜みしを以て、後黒田甫の門に入り、耳洗、軒羊山と号し、晩年世事を謝して専ら風月を友とす。明治三十九年一月九日歿す。享年七十八。常瑞寺に葬る」