第二十回『保建大記』を読む会のお知らせ

『保建大記』は、崎門の栗山潜鋒(一六七一~一七〇六)が元禄二年(一六八九年)に著した書であり、『打聞』は、同じく崎門の谷秦山が『保建大記』を注釈した講義の筆録です。崎門学では、この『保建大記』を北畠親房の『神皇正統記』と並ぶ必読文献に位置づけております。そこでこの度弊会では本書(『保建大記』)の読書会を開催致します。詳細は次の通りです。
○日時 平成三十年十二月二日(日曜日)午後二時開始
○場所 弊会事務所(〒二七九の〇〇〇一千葉県浦安市当代島一の三の二九アイエムビル五階)
○連絡先 〇四七(三五二)一〇〇七
○使用するテキスト 『保建大記打聞編注』(杉崎仁編注、平成二一年、勉誠出版

カルロスゴーンの逮捕と外国人労働者問題

カルロスゴーンが捕まった。彼はルノーから送り込まれた人間で、日産の日本幹部の接待漬けにあい、贅沢を覚えさせられ、その裏でいつでも切れるよう証拠を握られていた。ゴーン追放万歳と手放しで喜ぶ訳にはいかない。大企業幹部の悪辣陰険な権力闘争の風潮はそのまま残された。

いま外国人技能実習の問題が取りざたされている。経済界は「人手不足」だというが、実際は超低賃金でも働きたいという人が少ないだけで、職を求めている人はたくさんいる。要するに「人手不足」とは賃上げする気がない心情の現れなのである。だから法の網をくぐって悪事を働こうとする。自動車業界もまた「人手不足」を叫んでいる業界のひとつである。
ゴーンが去ったところで、ゴーンが残したCEOに高額報酬が集中し、現場に低賃金を求める体質は変わらないだろう。これは日産や自動車業界に限らない、社会全体、世界全体の問題だからだ。日産にはこうしたわたしの見立てをいい意味で裏切ってくれることを期待したい。
参考までにかつて『大亜細亜』誌でわたしが書いた外国人労働者問題に関する論説を全文紹介する。

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尾張藩・徳川慶勝による楠公社造立建議

 幕末の尾張藩では、楠公崇拝の気運が高まっていた。こうした中で、文久二(一八六二)年、同藩の国学者である植松茂岳が、現在の中区天王崎町の洲崎神社境内に、楠公、和気清麻呂、物部守屋を合祀して三霊神社と称する社を設けた。
 一方、慶応元(一八六五)年九月には、尾張藩士表御番頭・丹羽佐一郎が、東区山口町神明神社境内に楠公を祀りたいと寺社奉行所に願い出て、許可を得た。こうして、神明神社に湊川神社が設けられた。慶応三年には、佐一郎の子賢、田中不二麿、国枝松宇等、有志藩士発起の下に改築されている。
 その勧進趣意書は次のように訴えている。
 「夫れ人の忠義の事を語るや、挙坐襟を正し汪然として泣下る。是れ其の至誠自然に発する者、強偃する所有るに非るなり。楠公の忠勇義烈、必ずしも説話を待たず、其の人をして襟を正し、泣下せしめるものは則ち、唱誘の力なり。今公祠を修し、天下の人と一道の正気を今日に維持せんと欲す。あゝ瓶水の凍、天下の寒を知る。苟も此に感有るもの、蘋繁行潦の奠、その至誠を致し、以て氷霜の節を砥礪すべし」(原漢文、『湊川神社史 景仰篇』)。
 こうした藩内の楠社創建を経て、慶應三年十一月八日、尾張藩藩主・徳川慶勝は、楠公社造立を建議した。将軍徳川慶喜が大政奉還を願い出てから二十日あまりのタイミングである。 続きを読む 尾張藩・徳川慶勝による楠公社造立建議

歴史研究と百田尚樹『日本国紀』について

歴史において重要なのは先行研究を踏まえ、この研究にいかなる意味があるのか明らかにすることであろう。史料集は歴史ではない。ただし先行研究も何もないところから開拓しなければならないときもある。そのときは現代的関心も重要である。

三宅雪嶺の祖父三宅芳渓は頼山陽の弟子であった。雪嶺本人の叙述にも頼山陽の影響はみられる。雪嶺の盟友陸羯南も頼山陽の影響を指摘されている。雪嶺や羯南といった幕末生まれの明治人は水戸学や頼山陽は当然の教養であったと思われる。彼ら明治の保守派には西洋保守主義や近代ナショナリズム論の影響を指摘するのが相場であるが、こうした江戸時代の思想の影響も無視できない。
百田尚樹『日本国紀』を読んだ。この本、古代から現代までを振り返っているのだが、第十一章大東亜戦争まで(正確にいえばその直前の南京大虐殺コラムまで)、高校の日本史教科書とウィキぺディアをまとめたレベルで、あえて日本通史にする必要があったのかという感じである。営業戦略以外なかったのではないか。おそらく百田氏は戦前右派や幕末の尊皇思想をほとんど知らず、興味もないのではないか。共産主義国憎しから始まる反共史観というか、その議論の寄せ集めだからその前の時代がとたんに何も語れなくなるのだ。この反共史観、最近では江崎道朗氏が盛んに論じている。江崎氏はあえて戦前右派と距離を置き、反共一本槍で歴史を組み立てている意図を感じるが、百田氏はどうか。
一部でこの本のあら探しをして糾弾する向きもあるが、百田氏らの「思想的根っこ」を考えるほうが生産的ではないか。
私自身は百田江崎らとは違って、戦前右派、幕末尊皇思想と思想的につながりたいと考えている。だからこそ昨今の新自由主義やグローバル経済批判もするし、そこから近代の超克的議論にもなる。むやみに競争をあおり、同国民で格差をつけたがる風潮にも納得いかない。チェゲバラやカストロに(意見の違いは感じつつも)共感したりもする。
百田江崎はそうではない。「共産主義国との歴史戦に負けるな」と旗を振るばかりで、現状変革の志は弱く、政権批判の態度もない。日本をどうしたいかという理想もないから政権批判など「国内で共産主義国に共感し、日本の足を引っ張る連中」程度の認識しかないだろう。彼らは体制派ではあるだろうが、果たして日本国体を守り継ぐ人間であるかは極めて疑問である。

浅見絅斎の謡曲「楠」と尾張勤皇派

 慶應三年十一月、尾張藩の徳川慶勝は楠公社造立を建議した。その背景には、尾張藩における楠公崇拝の一層の高まりがあった。それを牽引したのが尾張の崎門学派である。森田康之助の『湊川神社史 景仰篇』によると、以下に掲げる浅見絅斎の謡曲「楠」は、崎門学派蟹養斎門下の中村習斎の家に伝わっていた。『子爵 田中不二麿伝』には、「楠」が掲げられている。
 正成、その時、肌の守りを取出だし、是は一とせ都攻めの有りし時、下し給へる令旨なり、よも是までと思ふにそ、汝にこれをゆづるなり、我ともかくも成ならば、芳野の山の奥ふかく叡慮をなやめ給はんは、鏡にかけてみるごとし、さはさりながら正行よ、しばしの難を逃れんと、家名をけがすことなかれ、父が子なれは流石にも、忠義の道はかねて知る、討ち漏らされし郎等を、あはれみ扶持し、いたはりて、流かれ絶たせぬ菊水の、旗をふたゝなびかして、敵を千里に退けて、叡慮を休め奉れ。
 この「楠」を習斎門下の細野要斎が写し、富永華陽に贈った。華陽はそれを田中寅亮(田中不二麿の父)に示した。寅亮は、楠公崇拝者で知られ、楠流兵法にも精通していた。寅亮の弟でかつ門下生の神墨梅雪(富永半平)は、「八陣図愆義」二十九巻の著し、熱田文庫に奉納していたという。寅亮はまた、楠公の旗じるしの文「非理法権天」の文字の意義を解説した刷物を知友に配ったこともあったらしい。
 そんな寅亮であったから、絅斎の「楠」に大変感動し、要斎に跋を請うた。安政三年に、名古屋市中区門前町にある長福寺は、この要斎の跋文を付して、絅斎の謡曲「楠」を一枚刷で発行している。要斎の随筆『葎(むぐら)の滴』には、以下のように書かれている。
 〈(安政三年)五月十四日午後、田中寅亮来臨して曰く、往時君が蔵せし浅見(絅斎)先生作の楠の謡曲の詞を写して珍玩せしが、音節に伝写の誤りありて謡ひ難かりしを、甲寅の年(安政元年)東武に官遊して金春秦安茂に改正せしめ、一本を写して高須(義建)少将の君へ呈せしに、御手つから鼓の手を朱書して賜へり。こゝに於て又先哲叢談中の先生の伝を後に加へて邦君(徳川慶勝)へも献りしに、邦君も殊の外賞し給ひ、御酒宴の時にはしばしば楠を謡へとて歌はしめ給ふ。この謡は世に流布せざれば人未だこれを学ばず、助音するものなかりきと、金春の声律を協(ととの)へし一冊を示し、又毎年五月二十五日は楠河州(正成)の忌日なれば、曽て長福寺に納めし楠氏の肖像(田中氏往年志貴山に蔵せしを、写して同寺に納む)を掲げて、同好の士相会して神前に楽を奏して遺徳を敬仰す〉

久留米尊攘派・池尻茂左衛門(葛覃)─篠原正一『久留米人物誌』より

 池尻茂左衛門(葛覃)は、高山彦九郎と親密な関係にあった樺島石梁に師事し、久留米尊攘派として真木和泉とともに国事に奔走した人物である。大楠公一族、真木一族同様、池尻も一族挙げて国事に奔走して斃れた。権藤成卿の思想系譜を考察する上で、父権藤直が池尻に師事していたことに注目しなければなない。
 以下、篠原正一氏の『久留米人物誌』を引く。
 〈米藩士井上三左衛門の次男として庄島に出生。母方の池尻氏が絶えたので、その跡を嗣ぎ池尻を姓とした。兄は儒者井上鴨脚。本名は始また冽ともいい、字は有終、通称は茂左衛門、号は紫海また葛覃、樺島石梁に学んだのち、江戸留学九年、先ず昌平黌に学び安井息軒・塩谷宕陰と交わり、転じて松崎慊堂の門に入った。天保九年十一月、藩校明善堂講釈方となり、嘉永ごろから池尻塾を開いて門弟を育てた。安政六年十二月、明善堂改築竣工の際は、特に命ぜられて「明善堂上梁文」を草した。
 早くより勤王攘夷の思想を抱き、特に攘夷心が強かった。天保十五年七月、和蘭軍艦「パレンバン」が入港し人心動揺すると、秘かに長崎に行き、その情勢を探り、事現われて譴責を受けた。これより真木保臣の同志として国事に奔走し、特に京に在っては公卿の間に出入し、三条・姉小路などの諸卿や長州藩主毛利敬親の知遇を受け、また朝廷と米藩との間の斡旋に力を尽くした。 続きを読む 久留米尊攘派・池尻茂左衛門(葛覃)─篠原正一『久留米人物誌』より

尾張の勤皇志士・丹羽賢③─荻野錬次郎『尾張の勤王』より

 荻野錬次郎『尾張の勤王』(金鱗社、大正11年)は、丹羽賢について、以下のように記している。
[②より続く]〈田宮、田中の二人を京都の新政府に止め一位老公を擁して帰藩せし以後の丹羽は、概ね田宮の規画に基くとは言ひ乍ら、藩中異論者の排斥処分を始め閣藩刷新のことを実行し、士気を振作し兵制を更め武器を改良して新たに壮兵を募り(新募壮兵隊の名称を磅磚隊、正気隊等と称す)急遽之を訓錬して直に征討軍に送る等一気呵成に之を遂行したるは彼れが断行力に富むの結果であらねばならぬ。
 固より上には成瀬の至誠と田宮の善謀とあり下には松本暢の能く新兵編成の事に当るあり、其他各種の便宜輔翼を得たるの致す所なるも、藩情紛糾乱の際兎も角も之を処理したるは丹羽にあらざれば企及し能はざる所である。而かも此時の丹羽は纔に二十三歳の若齢であつた。
 兵馬倥偬の間にも丹羽には別に閑日月ありて彼れが得意の風流は之を等閑に附せず詩酒悠々常に朱唱紅歌に親むだ、之れ彼れが英雄的資質の流露するものにあらざる歟而して彼れが此趣味より来れる戯謔(ぎぎゃく)なるや否を知らざる……
 丹羽は戊辰の首夏(閏四月二十四日)弁事に任じ東京府判事攝行を命ぜられたるに由り、一旦東京に赴任せしも藩地人才乏しく一位老公の政府に内請する所ありて忽ち藩地に帰り大参事として藩務に鞅掌せるものであつたが、廃藩置県(明治四年十一月十五日)の結果安濃津県参事と為り尋いて三重県権令と為り後ち、幾くもなく又中央政府に入り司法の丞となりたるものである〉

行き詰まりの正体

既存の俗流経済論は、経済における政府権力の存在をほとんど無視することで成り立っている。政府権力は、時に国民を守り福祉を提供し格差を減少させるが、時に一部商人と結託して一部の人間の利権のために動くことがある。

社会福祉をおもんじる立場も市場競争をおもんじる立場も、どちらも物質的充足を人生の目的としていることは変わらない。だが、物質的充足は人生の手段であっても目的ではないのではないか。要は金銭的な意味でなく何を成したか、何を残したかが重要ではないか。
かつて労働とはそういう自己実現的側面があったが、分業化マニュアル化が進めば進むほど、労働は苦痛で生きるために仕方なくせざるをえないことに変わっていった。
戦後日本は自ら戦争を行う気概を失った。憲法前文及び九条は、平和主義の美名のもと実は米軍の保護下におかれる自己正当化にすぎない。しかし自ら国民を守る気概のない国が経済的にも国民生活を真剣に守るはずがない。そのような政府など信用に値しないが、政府への信頼が奪われてしまえば、人々はますます目先の自己保身に汲々とし、物質的利益に固執するようになってしまう。
資本主義だろうと共産主義であろうと、人々を土や文化から引き剥がそうとする。土や文化から離れた人間とは、共同性を失った人間である。都会も田舎も風景が等質化され、ふるさとはただの出身地でしかなく、郷愁をもたらす存在ではなくなってしまった。こうした事態をもたらしたのは開発を無条件によしとする発想であろう。開発は、利権にとらわれた政治家(つまり政府関係者)が進めてきたことである。
卵が先か鶏が先かの循環論法になってしまいがちだが、政府=人心=開発の関係をみていくことは重要であろう。そして政府=人心=開発の関係を支えているのが進歩主義である。進歩だ発展だとそんな軽薄な概念にうつつをぬかしている隙に、われわれの人間存在が希薄化してしまっている。現代の行き詰まりの正体は、およそこのようなものではあるまいか。

尾張の勤皇志士・丹羽賢②─荻野錬次郎『尾張の勤王』より

 荻野錬次郎『尾張の勤王』(金鱗社、大正11年)は、丹羽賢について、以下のように記している。
[①より続く]〈特筆大書すべき彼れの功績は、輦轂(れんこく)の下に於ける戦闘の開始を防ぎ、帝都をして砲煙弾雨の街とし流血淋漓(りんり)の衢とするの惨禍を避けしめたる一事である、今其事実を略記せむに、既に政権を返上せる旧将軍徳川慶喜は幕府の兵と共に尚ほ二条城に在り、会、桑二藩は依然旧将軍を擁護して滞京せるに依り、薩長連合の兵団は迅に之を撃退して皇政維新の実を挙むことを主張し、相互衝突の期危機一髪の間に逼るの刹那、丹羽は急遽岩倉、大久保に会し旧将軍会桑二藩と共に尚ほ滞城するも未だ反形の顕れたるものなし、今若し薩長の兵団より彼れに対し事端を開くに於ては、其勝敗の数は別とし輦轂の下に戦を開くの責は当然我に帰して曲即ち新政府に在ることゝなる、因て先づ旧将軍に退去を命じ若し之に遵はざる時、其罪を鳴らし之を撃退するに於ては名分正くして信を天下に得る所以であると説き、岩倉、大久保の之が決定に悩むの色あるを見、彼れは雄弁滔々その利害を痛論し遂に岩倉、大久保を説服し自巳の主張を貫きたるものである、其結果として旧将軍は会、桑二藩と共に任意大阪に退去することゝなり、新政府の成立に一進転を与ふるに到つた、他日伏見、鳥羽の衝突起り竟に戦端を開くの已なきに至りたるも、一旦武力を用ひずして平穏に旧将軍以下を退京せしめ、夫が為帝都の安寧を保ち得たるは之を丹羽賢の功績に帰せねばならぬ。
 又伏見、鳥羽衝突の日新政府の危惧一方ならず、為に帝座叡山移御の議を生じたる時、尾州側の参与は一斉に其不可を主張した、此時も亦丹羽は特に岩倉、大久保に対し今の時は元弘の時と異なる所以を力説し遂に衆論の帰一を見るに到つた、又此日単身二条城に突進して留守梅沢亮を圧迫し直に開城の事を実行した〉
[続く]

尾張の勤皇志士・丹羽賢①─荻野錬次郎『尾張の勤王』より

 荻野錬次郎『尾張の勤王』(金鱗社、大正11年)は、丹羽賢について、以下のように記している。
 〈内には燃るが如き雄志を抱き、表には冷灰も啻ならざる静寂を粧ひ、竟に痼疾の為に殪れたる丹羽賢の薄命は、個人として深く之れに同情の涙を禁じ得ざるのみならず、国家又は社会としては彼れの早死を一大損失として歎惜せねばならぬ。
 丹羽賢は倜儻駿邁にして気節高く、時に或は慷慨激越の風あるも、而かも識見卓絶、実に忠誠愛国の士たりしこと、彼れを知るものゝ斉しく認むる所にして之が代表の讃とも見るべきは、その友鷲津毅堂が華南小稿に序する所にて明瞭である。
 嗚呼、英雄首を回らせば即ち神仙である、一位老公(尾張旧藩主徳川慶勝)が『回首即神仙』の句を彼れに与へられたるは、即ち彼れを英雄と認められたるに因るものであらう、然り彼れは実に天才的の人にして英雄の資質を具備せるものである、されど天彼れに年を仮さず、彼れをして大に英雄的手腕を振ふの機を与へざりしは、まことに遺憾である。
 丹羽は幼時国枝松宇に親炙して忠孝節義の薫陶を受け又文久二年父氏常の祗役に従つて江戸に出で幕府昌平黌に学ぶ(年十七)。松本奎堂の知遇を得たるは此時にして奎堂を名古屋に迎へ学塾を開きて国史を講じ、尊王攘夷の説を鼓吹せしめたるは即ち其後のことである、又松本暢等の志士と親善となりしも当時のことである。
 元治元年征長の役父氏常が総督に扈従するに方り丹羽は父に従つて広島表に出陣した(此時丹羽は白木綿にて陣羽織を製し其背に『肯落人間第二流』云々の一詩を大書して著用した、人皆其異彩に驚きたりと言ふ)其後丹羽は田中不二麿、中村修等と共に尾張勤王の巨魁田宮如雲の幕下に参し、東奔西走勤王の事に尽し明治維新の際田宮、田中等と共に徴士に選抜せられ尋いて新政府の参与と為り、明治維新の創業に貫献すること少なからざるものである〉
[続く]