皇室中心の政治論

 物事の本質は、何年経とうが、何百年経とうが決して古びない。
 二七〇〇年近くある皇室の歴史の中で、立憲君主であった時期はそのごく一部にすぎない。したがって、「立憲君主としての天皇」は天皇という存在の一面ではあるが、天皇という存在のすべてではない。ところが、成文憲法なるものができて以降、天皇は立憲君主としての存在がすべてであるかのような誤解が広まってしまった。それだけでなく、「成文憲法」という考え方を編み出した海の向こうの言葉でしか、天皇を語れない人間が出てくることになった。「天皇は国家における最高機関である」という天皇機関説がそれだ。天皇主権説にも、天皇機関説ほどの臭みはないにせよ、そのきらいがあった。戦後の「象徴天皇」もまた、海の向こうの人間が考えた理屈である。
 我々は海の向こうの言葉ではなく、我々自身の言葉で、「天皇」という存在を語っていかなければならないのではないか。それは、私一人でなすには荷が重すぎる論題である。だが、そのきっかけとして、考える材料を提供することくらいはできるのではないか。そういう思いで本稿を書き進めていきたいと思う。

 天皇主権かどうかという論争は天皇機関説論争が有名であるが、それ以前から日本の国体をめぐる思想において重大な関心を持たれていた。明治七年の民撰議員設立建白書のころ、阪谷素という人物が、「天皇が万世一系であることは言うまでもないが、その下での政治は、皇国も諸国同様中世以来一様ではないので、政体は大臣合議の内閣制か君民同治の議会制を採らなければ人心は共和の説に向かってしまうかもしれない」と建議している(坂野潤治「西欧化としての日本近現代史」『現代日本社会4歴史的前提』東京大学社会科学研究所編、21~22頁)。この阪谷の意見は、果たして「天皇主権説」の側なのだろうか、それとも「天皇機関説」の側なのであろうか。坂野は明確には述べていないものの、この阪谷の意見を「天皇機関説」の先駆としてとらえている節がある。なぜ坂野がこの意見を機関説の側と見なすかといえば、内閣や議会を重んじるのは「天皇機関説」の側だという思いがあるからだろう。当たっている部分もないではない。確かに天皇主権説は天皇独裁説であるかのように語られることが現代でも珍しくない。だが本当にそうだろうか。
 例えば天皇主権説論者である穂積八束は「大権政治は大権専制の政治には非ず。専制ならんには、之を憲法の下に行うことを許さざるなり。君主の大権を以て独り専らに立法行政司法を行うことあらば、即ち専制なり。同一君主の権を以てするも、立法するには議会の協賛を要し、行政するには国務大臣の輔弼に依り、司法は裁判所をして行わしむることあらば、分権の主義は則ち全たし。権力の分立は、意思の分立を意味す。国家意思の絶対の分立は、国家の分裂なり。唯主幹たる意思の全体全体を貫くあり、而して之に副えて、其の或種の行動には、更に或種の機関意思之に加味せらるることあらば、統一を損することなくして専制を防ぐに足らん。之を立憲の本旨とす。大権政治とは大権を以て此の主幹たる意思とする者の謂なり。」(穂積八束『憲政大意』244頁。原文カナ、旧仮名遣い、旧字)即ち穂積は国家意思の分裂を防ぎ、権力の分立を図るためにも天皇大権の確立が必要だと説いているのである。それに対して美濃部は「穂積さんは主権を以って絶対無制限の権力であると言い、その意味においての主権が我が憲法上天皇に属するのであって、即ち天皇の主権は絶対無制限の権力であり、主権を制限する如何なるものも存在しない」と考えていると、全くの無理解を示している(高見勝利編『美濃部達吉著作集』113頁)。もちろん穂積は天皇独裁を主張したのではない。国家意思が天皇にあると述べたのである。美濃部には「内閣政治」を重んじ、「立憲独裁構想」があったとも言われる。美濃部は明治憲法の解釈改憲を目指した(坂野潤治『日本政治 失敗の研究』16~18頁)と言うが、要するに天皇に属する国家意思を内閣に属させようとするものであった。そのために唱えられたのが天皇機関説であった。天皇主権説と天皇機関説の違いを押さえるのはとても重要なことだ。だが両者を真逆なものと考えすぎるのも誤解を招く。主権説も、天皇が持つと考えた国家意思とは「これからは立憲制を採用する」という類の国家の大方針であって、当然細部は輔弼者が上奏し責任を負うものだと考えていた。一方で機関説も内閣の働きを重んじたが、皇室を廃そうとしたわけではなかった。
 余談ながら、戦後、「大日本帝国憲法は国民の権利を「法律に定めるところによる」と書き、人権を制限していた」という悪質な認識が流布された。だが、大日本帝国憲法が欽定憲法であることを思えば、これは「臣民の権利は法律で臣民相互に決めるべきで、主権者(=天皇)はこれを侵害できない」という宣言であった。これを唱えたのは穂積八束である。穂積が天皇独裁論者であるとは悪質なデマであろう。
 余談ついでに言えば穂積は「古来仁君名主ト称スル者ハ多クハ社会主義ノ臭気アリ」と述べ、貧困層を保護する権力を保持しなければ不測の事態も起こるかもしれず、主権を制限する説は社会の前途のために憂うべきところがあるとして、革命の未然防止という観点ながらも弱者救済にも関心を持っていた。国民の利害関係による軋轢は、天皇が主権者として確立されていなければ調和できないと考えていた(穂積八束「国家社会主義志向」長尾龍一編『穂積八束集』145~148頁)。
 あるいは元田永孚は天皇親政論を述べたが、それも薩長の専制を抑止するために唱えられたものであった。天皇主権論はむしろ政治実務担当者の私物化を妨げる目的で唱えられていたと言ってもよい。そう考えたとき、天皇主権説の問題は、天皇独裁か、民本主義かと言ったような単純な二者択一の問題ではなく、日本という国の公的意志はどこにあるのか、どうやって実現するのか、という問題として現れるのである。これは現代でも大いに問うべき問題ではないだろうか。もっとも、当時から天皇主権説は天皇独裁説と錯覚されたし、天皇機関説は皇位を廃する、あるいは無力化するものと思われたため、議論は平行線をたどることになった。
 整理すると、天皇主権説とは、政治実務担当者の私物化を防ぐために天皇大権を強く確立し、その中で立憲政治を行うという思想である。反対に天皇機関説とは、君主の国政の私物化を避けるために内閣や議会の働きを重んじるところがある。もっとも、美濃部は二枚舌的なところがあり、その言っていることが私にはよくわからない。ただ、君権を制限することなしには民衆の意志を政治に反映させることはできないと考えている点、天皇を公的存在とは考えず、国政を私物化する恐れがあると考えるところに、何かいかがわしいものを感じざるを得ない。蓑田胸喜が美濃部の著書を「大逆的怪文書」と評したのを、私は過剰反応だとは思わない。
 だが今必要なのは機関説を批判、否定することではなく、主権説論者および部分的批判を含みながらそこから派生した思想が、何を言っているかを虚心に眺めることではないかと考え、しばらく議論の紹介を続ける。
 上杉愼吉は「国体に関する異説」で「仮令心に君主々義を持すると雖も、天皇を排し人民の団体を以て統治権の主体なりと為すは、我が帝国を以て民主国なりと為すものにして、事物の真を語るものに非ずと為すのみ」と言う(『近代日本思想体系33 大正思想集Ⅰ』6頁)。
 あるいは蓑田胸喜は「帝国憲法第十条に曰く『天皇ハ行政各部ノ官制及文武官の俸給ヲ定メ及文武官を任免ス』と。(中略)行政法を講ずるもの、その直接の第一依拠を本条に求めざるもの一人としてなきにも拘らず、美濃部氏を始め従来殆どすべての行政法学者は異口同音に『行政権の主体は本来国家である。』の語を以てその論理を進むるのである。これいふまでもなく憲法論上に於ける『国家主体・天皇機関説』の行政法論へのそのままの適用である。即ち、『統治権の主体』を以て国家となすの結果、その統治権の一成素たる『行政権の主体』も亦国家なりとするのである」(蓑田胸喜『行政法の天皇機関説』原文旧字、蓑田胸喜全集第六巻231頁)という。
 両者がここでこだわっていることが『統治権の主体』という言葉であることに注目したい。「統治権の主体」即ち「主権」なのだが、現代風に言い換えれば、政治の正当性あるいは正統性の所以ということではないだろうか。なぜ政府は行政的命令を国民に発する権限があるのか、その由来は天皇ではないのか、単に国民としてしまってよいのか、と問うたのである。あるいは、行政官は天皇に任命されるが、それは天皇が大権を持っているからではないのか。大権を持っていないものがどうして任命できるのか、と問うたのである。
 現在でも総理大臣は天皇から任命される。実質的に選挙でもっとも多く議席を得た党の総裁が自動的に選ばれているとしても、この際それは大した問題ではない。なぜならそれは「政体」の議論であって「国体」の議論ではないからだ。身もふたもない言い方をすれば「国体」とはタテマエである。建前としての政治を行う根拠、それは国民に支持された(=機関説)からだろうか、それとも天皇に統治を委託された(=主権説)からだろうか。
 今、「天皇に統治を委託された」ことを「主権説」の論理として書いた。これは読者に違和感を与える論理かもしれない。だが主権説論者が天皇独裁を主張したことなど一度もないのである。統治を委託した、ということは、元来統治は天皇が行うもの、という意味が含まれている。すなわちそれは「統治権の主体」、つまり主権が天皇にある、ということではないか。天皇主権説とはごく常識的な主張である。
 仮に「国民の多数が支持している」ことに政権の正当性の所以を求めた場合、果たしてその政権は正当な政権と言えるだろうか。仮に本稿を書いている現在の安倍内閣で思考実験してみよう。
 安倍内閣はたしかに議席数は過半数を超えている。自公政権という意味では衆議院では約2/3を占めている。だが自民党、公明党に投じられた票数は全票数の過半数を超えていない。つまり「国民の過半数が自公政権を支持しなかった」と解釈することも可能である。にもかかわらずなぜ安倍政権が正当性を持てるのだろうか。
 あるいは仮に過半数を超えていたとしても、過半数を超えていたらなぜ統治してもよいのだろうか。仮に6割の国民が支持したとしても、5000万人近い人が支持しなかったことになる。いったい何の権限があって、政府はこの5000万人にまで行政命令を発し、税金を徴収し、場合によっては戦場に送り込むことが可能なのだろうか。もっと言えば、仮に政権交代が行われた場合、なぜ前の政権と今の政権が連続していると言い得るのだろうか。誰の許可を取って引き続き税金を徴収し外交権を行使するのだろうか。答えは一つしかない。日本の歴史、伝統、文化、信仰、そして統治権を体現する天皇に委託されたからではないのか。それではなぜ皇室は統治権を持つのか。これは自明である。「天壌無窮の神勅」というものがあり、そこに日本は天皇が永遠に統治する旨が書かれているからである。明治憲法ではそれを「万世一系の天皇之を統治す」と表現した。私は日本史上において「天皇の統治」が揺らいだところを知らない。摂関政治が行われようとも、幕府ができ将軍がいようとも、それらはすべて「天皇の臣下」であり、臣下として統治権を行使したに過ぎない。臣下としての立場を忘れかけた人物は、史上に何人か思い浮かぶが、それらの人物は忘れかけた途端、何らかの政変により打倒されることになった。「天皇の統治」は今に至るまで全く揺らいでいない。
 余談ながら多数決と言うのは一見合理的に見えて、実はかなり怪しい部分をはらんでいると言わざるを得ない。なぜ過半数の意見を国家全体の意見とみなしてよいのか、それを近代西欧思想はあれこれ理屈付けてきたわけであるが、私などはどこか胡散臭い部分を感じずにはいられないのだ。もちろん、多数決による意思決定以外対案が出しづらいのは重々承知しているが。

 話を戻そう。美濃部達吉は『憲法講話』で、「君主が統治権の主体であるとするのは却て我が国体に反し吾々の団体的自覚に反するの結果となる」と言い、「統治権が全国家の共同目的の為に存するもので、租税を課するのも、軍備を起すのも、外国と戦争をするのも、領土を拡張するのも、常に全国家の利益を計り国利民福を達するが為にするものであつて、単に君主御一身の利益の為にするものではないことは、更に争いを容れない所であります。国家が統治権の主体であつて、君主は国家の機関であるといふのは、唯此の思想を言ひ表はしたものに過ぎぬのであつて、我々の尊王心は毫も之に依つて傷つけられないのみならず、却て益々発揮せらるゝ」という(「憲法 美濃部達吉と上杉愼吉」河野有理編『近代日本政治思想史』243頁からの孫引き)。統治権が「全国家の共同目的の為」にあるということには天皇主権説論者も異論はなかろう。むしろ違和感を呼び起こすのは、天皇主権だと天皇は国家の利益ではなく、自らの利益の為に統治権を濫用しかねないと考える美濃部の皇室観のほうであろう。そこまで言っていないと美濃部は言うに違いない。だがどう読んでもそういう発想があるからこの論理展開になるようにしか読めないのである。したがって、天皇機関説論争は不敬か否かといった学理以外の部分での論争が多くなったのだが、美濃部はそれが自らの思想が呼び起こしたものであることにどれくらい自覚的だったのだろうか。
 美濃部を巡る学術論争が政治闘争に転化していった理由は他にもある。いい加減な本によっては、美濃部は学究の徒であったのに、その学説を問題視した主権論者が誹謗中傷したかのように書いてある場合もあるが、これは全く正しくない歴史理解である。美濃部は山県有朋に重用された一木喜徳郎の弟子であり、美濃部も山県閥の支援を受けていた。また、男爵である菊池大麓の娘を嫁にもらい、そうした人脈により貴族院議員にも選ばれていた。そして、長州閥の影響もある、立憲民政党のブレーンでもあった。南北朝正閏論争もそうだと言われているが、天皇機関説論争も、「長州閥対それ以外」という権力闘争の様相を秘めていたのである。
 天皇観の話に戻ろう。国家、歴史、文化、信仰あるいは国民全体を代表する存在こそが天皇であって、それを機関説のように私的利害を満たすために国政の濫用を図りかねないと考えることは、天皇観の未熟さと映ったに違いないのである。むしろ政権実務者に過度な権威、権限を与えてしまうことのほうが、実務者が私的利害を満たすために国政の濫用を図りかねないと考えるのが主権説の立場であった。そのことは穂積八束が三権分立を徹底しようとしたことなど、これまでの主権説論者の思想を見ていけば容易に連想されることであろう。
 蓑田胸喜は「天皇親政といふことほど西欧に所謂独裁政治と遠きものはない」という。天照大御神も八百万の神の意向を確認し、孝徳天皇は臣下と共に治めたいと欲せられ、明治維新の際には万機公論に決すとされた。独裁は天皇みずから取られなかっただけではなく、国家機関(=政府)にも許さなかったことを強調した(「天皇親政と輔弼機関の分化重層」『蓑田胸喜全集』第六巻964~966頁)。蓑田は決して議会が存在することを否定していない。議会が政党に私物化され浅はかな民意が大手を振うことに嫌悪感を示したのである。しつこく語るように天皇親政論は天皇独裁論ではない。

 天皇のいわゆる「人間宣言」は、GHQが草案を書いて昭和天皇のお言葉として公表させたというのはもはや常識の類で、GHQ草案に昭和天皇は五箇条の御誓文を足したことも有名である。これを元に天皇の「人間宣言」はデモクラシーの精神はアメリカに教わったものではなく明治以来の日本の考えだったのだ、ということを示したという解釈も後を絶たない。だが、戦前戦中には「民主」という言葉は禁句であった。このような解釈は私には説得力があるようには響かない。私には、いわゆる人間宣言は「天皇主権」を宣言した声明に思えてならないのである。一言でいえば、「これからは引き続き五箇条の御誓文の精神にのっとって政治を行います」と、昭和天皇が国家の大方針を宣言したと受け取れるからである。国家の大方針を決める権限は、引き続き天皇にあると内外に示したのである。

 徳富蘇峰は終戦後の日記、『頑蘇夢物語』で、「国体の擁護が出来た」とか「皇室の尊厳が保たれた」などという論者がいるのは「驚き入る次第」であり、「実際の主権は、マッカーサーに在りといわねばならぬ」という(『徳富蘇峰終戦後日記―頑蘇夢物語―』第一巻35頁)。もちろん蘇峰はこれをGHQに媚びる意図で述べたわけではなく、世を嘆く言葉として述べたのである。
 そんな心情の中で蘇峰は「皇室中心主義」を述べる。これは今後日本が皇室中心主義で行くべき、という議論ではない。今までも皇室中心主義であったという確認でしかない。しかしその「確認」はとても重要であると思われる。
 蘇峰は、日本に皇統が連綿と存在しているのは摂関政治や幕府や議会があったからであり、実際の政治から遠ざかったことが皇室が長年続いた要因なのだという議論と、国家の万機を治め、雲の上に仰ぎ奉ることの両方を批判する。皇室中心は君徳の実践にあるのであって、場合によっては君を諌めることも必要だと述べる(同86~90頁)。蘇峰は元田永孚の名前も出しているが、要はあくまでも全権は主上にあるが、政策決定にあたっては君臣との関係の中で判断され、場合によっては臣下が君をお諌め申し上げることも憚るべきではない、というものであろう。

 「すべての人間が利己的であるということを前提にした社会契約説は、想像力のない合理主義の産物である。社会の基盤は契約ではなく期待である。社会は期待の魔術的な拘束力の上に建てられた建物である」(三木清『人生論ノート』新潮文庫版92頁)。
 西洋のもつ「契約」の観念には、どこか空想的な部分が付きまとう。対して、人間が抱く素朴な感情に還っていくことは、社会という「魔術的な拘束力」に期待するということであろう。天皇は万物共生の体現者でもあり、日本社会が持つ「魔術的な拘束力」を示す存在でもある。欧州の王室は美男美女のプリンスで、明らかに「セレブ」であることを社会的吸引力としているが、皇室はそうではない。皇室は日本人の信仰に依って立っている。
 政治的な部分に限定してみると、皇室は政局的に中立な存在であるだろうが、それが政治判断を求められる存在でないかどうかはわからない。というより、天皇は日本社会の「魔術的な拘束力」の上に立つ存在であるがゆえに、その行動が自然に政治的意味合いを帯びるのである。たとえば、東日本大震災の際に陛下がビデオメッセージや被災者支援に注力された。それは真に被災者を慮ってのことだが、結果的に政権与党民主党のお粗末な対応が浮き彫りになり、民主党の政治生命は終わったと言ってよい。天皇陛下のお言葉はなぜそのような重き意味合いを持つのだろうか。それは、今においても天皇と言う存在が決して立憲君主というだけの存在ではないことを示すのではないか。

 里見岸雄は天皇主権説と天皇機関説が、ともに統治権や所有権を前提に国体を理解していると批判する。天皇の一視同仁、一君万民の意思は社会に根差すがゆえに憲法を凌駕したものとして捉えられた。私流に言えば、憲法は政府を縛るものであって、天皇の立憲君主たる側面は天皇という存在のごく一部でしかないということではないだろうか。それに対して憲法の条文を盾に統治権だの所有権だのを言い争っていることが、国体を成文憲法だけでしか理解しようとしていない証ではないか、ということではないか。
 晩年の上杉愼吉は、無政府主義者クロポトキンにまで関心を持ち、実力による奪い合いではなく、相互扶助や互恵による連帯に社会性を見出していた(『甦る上杉愼吉』144頁)。近代の所有権にがんじがらめになった世界観を否定したとき、相互扶助的な素朴な共同体を愛する思想が生まれる。畏るべきは、そこにおいても天皇は日本人の素朴な共同感情の証となりうることである。この時天皇と言う存在は、天皇機関説に該当する存在ではないところか、立憲君主や天皇親政にすらそぐわない何かである。このときの天皇は経済的合理性はおろか近代国家の範囲外にいる。権藤成卿は政府をプロシア的だと批判し、社稷に基づく国家体制を模索したが、そこにおいても皇室は「綺麗なもの」として中心にあり続けている。三島由紀夫は「文化としての天皇」として、天皇を文化の源流であり根拠であるとみなし、古来の祭祀的政治と結びつけた。それは近代的合理主義と結びついた天皇を磯部浅一の言葉を借りて「何という御失政」「何というザマ」だと罵り、「神々の御いかりにふれますぞ」と叱る側面すら持っていた。天皇とは、あまりに重層的な存在であり、それを重んじる人間の思想もまた、重層的側面を持たざるを得ない。ところで権藤や三島は、天皇が立憲君主的存在でありながらも立憲君主という概念だけではくくれない概念をも平然と兼ねていることをどう説明するのだろうか。「文化としての天皇」であるべきという議論は、むしろ今までの天皇を過度に「立憲君主」という存在だけに貶めている響きすら感じる。むしろ天皇は時には立憲君主であり、時には古代祭祀王であることを平然と兼ねる畏るべき存在であることを想うべきではないだろうか。

 戦後保守は、天皇は現実政治から超然としているべきだし、それこそが天皇が長年続いた所以なのだと強調する。だがそれは天皇という存在に潜む重層性をまるで見ていない。天皇が血縁によってのみ存立すると考えるのと同様に底の浅い議論である。たしかに天皇の後継は血縁によって決定されるが、天皇の正統性は血縁だけではなく、日本の歴史、文化、信仰、倫理、さまざまなものによって補強されている。天皇は憲法に拘束される存在でありながら、憲法にだけ拘束される存在ではない。天皇は主権者でありながら立憲君主であり、祭祀王である。それを支離滅裂にさせないのは、峻厳な倫理に支えられるだけではなく、何か社会が持つ「魔術的な拘束力」を体現する存在だからではないだろうか。「魔術的な拘束力」というと何かおどろおどろしいものを感じられる方もいるかもしれない。だが社会的に団結意識をもたらし、自他を区別する「何か」である。同じ社会を構成する仲間であり、先人と感情的につながっている、という期待のことである。

 最後に念のために言わせていただきたいことがある。正直私は本稿で何かを言い得たとは思っていない。また、私自身が天皇と言う存在を語りつくせたなどとは到底思っていない。ただ、既存の天皇論はどこか片手落ちな部分があり、何か説明しきれていないような違和感をぬぐえないという思いのもと書いたが、本稿も結局片手落ちで違和感があるものにしかならなかったことは承知しているが、ご寛恕いただきたい次第である。

地理と日本精神

 日本人の精神は「開発」と「経済成長」に毒され続けた。「自然」と「信仰」に対する敬意は、常に後回しにされた。その起源を探れば、冷戦も大きいと思うが、やはり文明開化にまでさかのぼっていかざるを得ないだろう。日本は生き残るために開国し、近代文明を受け入れた。それは他の選択肢を取りようがない状況だったが、結果的に物質的生存が重んじられて精神の生存が軽んじられた側面は否定できない。このことは常に指摘され、国粋主義者などによっても見直しが叫ばれてきたことも知っておくべきだ。大地に根差す思想でなければ日本の伝統を真に受け継いでいるとは言えない。グローバル化、消費社会化の今日の状況下で、文化、伝統を考えようとすれば、大地に根差す思想とは何かということを考えないわけにはいかないのではないか。
 「日本」と言う境界は、誰かが突然地図上に線を引いてできたものではない。さまざまな歴史的経緯によっていつの間にか生まれ、それを近代政府が追認していったものだ。つまり「日本国民」であるという条件は歴史的、伝統的に定められたものであり、我々はその大きな歴史的流れの中に乗っている存在である。柳宗悦は、日本の地図はいつ見ても見飽きないと言う。山も川も、平野も湖も、島や岬、港や町もすべて歴史を持っているからである。地図はいつでも祖国への愛着を呼び起こさせる。その国に生まれた運命に、感謝と誇りを持つことが務めではないか、と言う。柳のライフワークとなった民芸も、その土地の気候風土を離れて存在し得ないものであるとみていた(『手仕事の日本』岩波文庫版15頁)。
 地理は単に国籍や歴史を分かつ境界線ではない。地理的制約は文化的制約であり、生活的制約でもある。地理は文化を分かつ境界線でもあるのだ。江戸時代に『人国記』が著されるなど、風土と文化の関連は早くから関心がもたれていた。古くは『風土記』などもその一種と言えるのかもしれない。
 日本は古くは葦の生い茂る沼地だったという。それを少しずつ耕作地などに作り替えていったのが日本の歴史だった。日本人が米という田を必要とする作物の栽培を重んじたのもそれと無縁ではないだろう。松本健一は、「日本、台湾、中国南東部、インドシナ半島、ボルネオ島(カリマンタン島)、インドネシア、そしてバングラディシュ、スリランカ、東部インド」を「泥の文明」と見做す。「泥の文明」においては、「生命を生む、人智を超えた畏るべき力を持っている根源は泥である、という世界認識になる。人間も、その中から生れてくる」という(『砂の文明 石の文明 泥の文明』岩波現代文庫版105頁)。水分の多い泥土が多くの生命を育むことから、畏きものとして泥から神々が生まれてくるという世界観を持っているのではないかと指摘している。
 その他にも、風土を以て日本の文化的特徴やナショナリズムの根拠と為す議論は多く見出すことができる。浅羽道明は『ナショナリズム』で、『日本風景論』を使って国土、国民が運命共同体であるという物語が作り上げられたことを論じた(92~115頁)。志賀は確かに日本の風景を「夜郎自大」に誇っていたが、それは国籍のない客観的分析として誇っていたのではなく、一人の日本人として日本の風景に誇りを感じるという自己表現でもあったことを忘れてはならないのではないか。ただし、志賀のほうも、「日本人が日本江山の洵美をいふは、何ぞ啻にそのわが郷にあるを以てならんや、実に絶対上、日本江山の洵美なるものあるを以てのみ。外邦の客、皆日本を以て宛然現世界における極楽土となし、低徊措く能はず、自ら 花より明くる三芳野の春の曙みわたせば もろこし人も高麗人も大和心になりぬべし 頼山陽 の所あらしむ」(岩波文庫版14頁、改行略)と、「日本人だから日本の風景に美を感じる」という側面を自ら拒否して、日本人でなくとも世界的に素晴らしいものだと言いたがるところがあった。明治の国粋主義は、日本を国際的に位置付けなければどうしても気が済まない側面があった。それは日本の独立、存亡すら危うかった時代の不安、危機感の裏返しでもある。日本の美は「絶対的」に美であるはずなのに、外国人の評価を気にしないではいられない心情が隠されている。
 内村鑑三はそんな志賀の議論を受けて、日本の風景は「園芸的」「公園的」美に過ぎないではないか、と批判し、外国の「偉大な美」には及ばないと論じている(『日本風景論』岩波文庫版付録367頁)。その内村は『地人論』で地理と文化の関連を論じているが、それは、日本に引き付けたものというよりは博物趣味的なところがあったように思う。むしろ日本に引き付けたのは志賀重昂の『日本風景論』であった。志賀は『日本風景論』で、古典文学から様々な引用をしつつ、それを地理的特徴と結びつけることでナショナルなものとして論じるという特徴があった。『日本風景論』はある種の「まとまりのなさ」を抱えた本である。日本の山々の特徴を述べたかと思えば登山を奨励し、日本の風景保護を訴える。統一的な主張はよくわからないがとにかく志賀が日本の風景を大事にしていることだけは伝わってくる。そういうつくりになっている。志賀は理知的に語っているつもりなのだろうが、結局は理知よりも人の情に訴えるところが強い、そんな不思議な本なのだ。先に引いた内村の批判も、批評家の任として触れざるを得ないが、志賀の愛国の情は高く評価するという調子であった。
 和辻哲郎は『風土』で、すべての文化、伝統は風土によって形成される面があり、それぞれ独自な価値を持つことを主張した。和辻は、ヨーロッパは夏の乾燥があり、雑草がない。したがってヨーロッパの自然は人間に従順であるのに対し、日本では自然に対峙しなければならないことを説いた(岩波文庫版74~89頁)。
 高山彦九郎は、日本の民族文化の固有性を考えるために、日本全国を歴遊し、この地方では何が取れるか、どんな人物が出たのかと言ったことを詳細に調べて回った(松本健一『海岸線の歴史』170頁)。各土地の文物を民族文化、日本精神にまで昇華させようとしたところに注目すべきであろう。同様に、例えば牧野富太郎は日本産の植物に漢名をつけることを激しく嫌った。サクラを桜桃と書くことや、アジサイを紫陽花と書いてはならないと主張していた(『植物記』等)。ここに国学的な態度を連想するのはそう突飛な感想ではないだろう。牧野は植物の生態を民族文化にまで高める部分があったと言えるのではないか。
 五木寛之はセイタカアワダチ草に外来のものと日本との関係を見る。セイタカアワダチ草は外来の植物で、既存の日本の植物を駆逐して広まっていき、一時期はセイタカアワダチ草の駆除も行われたが、完全に絶滅させることはできなかった。しかし、セイタカアワダチ草そのものが馴化して、既存のススキなどと共生するようになったという。それに伴い、セイタカアワダチ草はその背丈も低くなり、他の植物を枯らしてしまうようなこともなくなったという(『人生の目的』幻冬舎文庫版188~198頁)。外来のものが、年月を経てその地になじむ過程を五木は植物に見出している。
 松本健一は、玄界灘の小島を見ながら、「あぁ、このように白い砂浜をもち、緑の林をもった島の風景がわたしの死後もずっと続くなら、わたしの魂はこの風景のもとに安んじて帰ってくるだろうな、とおもったのである」と言い、海岸線に「民族の心象」、「わが民族のふるさと」を求めた(『海岸線の歴史』202頁)。そして、テトラポットによって砂浜が失われた九十九里浜や、大型の船やタンカーが入るために再開発された、産業用の「人口の港湾」をあさましいとみなすのである(同204~206頁)。
 松本は『海岸線の歴史』で、志賀が『日本風景論』で火山を称え、海や海岸線をあまり取り上げていないことを批判する(201頁)。対照をなすかのようにも見える両者であるが、志賀が「小利小功に汲々とし」、「名木」、「神木」を斬り、「道祖神」の石碣を橋に使うような態度は、「歴史観念の聯合を破壊」すると批判した(岩波文庫版321頁)のに対し、松本は景観を考慮しないコンクリートの建造物を、「美しい調和をぶち壊す」「日本人が伝統的に培ってきた美意識や精神の豊かさをぶち壊す」「高度経済成長以降、特にバブル期の日本を象徴する風景」であると批判している(『海岸線の歴史』247頁)。両者とも風景に託しているのは「文化」であり、経済が文化の妨げになる光景を嫌うのである。そして、二人とも将来の日本人の感性の豊かさのために、景観を保護すべしと訴えている。
 ところで、松本健一は白砂青松の海岸線に日本のアイデンティティを見たわけだが、柳田国男が白砂青松の光景を批判していることに触れていない。柳田は海の歌、海の絵といえば松の木を点出しようとすることを「古臭い行平式」であると非難し、白砂青松という類の先入主を離れて、自在に海の美を説く必要があるという。海の風景は塩を焼く等で著しい歴史の変遷があるが、以前のほうが美しかった。今のような経済生活が続く限り、遅かれ早かれどこの海も似たような外貌になって、文学の単調を非難し得なくなるという(「雪国の春」『柳田国男全集 2』ちくま文庫版75~76頁)。私は小賢しい知識を振り回して松本を非難したいのではない。松本も必ずしも白砂青松の海岸線であればよいという言い草をしているわけではないからだ。それよりも柳田が経済的理由のために一様になっていく海岸線を見て文学的単調が起こるのではないかと嘆いたように、松本が白砂青松すらなくなってコンクリート化されていく海岸線に「化石となった物語」しか持てなくなる民族的アイデンティティの危機を感じた(『海岸線の歴史』235頁)ことに相似形を感じ、共感したためである。経済や軍事は自然を軽視し、破壊して国を守り、発展させていくためだという。経済や軍事が必要なのはもっともなことである。だがそういったものに常に置き去りにされる自然、そして文学を軽視してはならないのではないか。
 自然と人間の間には社会が介在している。自然と人間と社会は三者それぞれ影響を与え合って生きている。自然を軽視するのは社会や人間を軽視するのと同じである。目先の功利によって自然を破壊するとき、そこには社会や人間も忘れ去られており、人はただ利益に使われる存在でしかなくなる。
 経済、あるいは軍事などもそうであろうが、そういった政府の自己防衛、自己発展作用は時に文化や民族の誇りをも破壊することがある。なるほど文化や民族の誇りが経済力や軍事力なしに維持できると思うのは、あまりに甘い考えと言わなければならないだろう。だがそれは、経済や軍事による文化の破壊を、見て見ぬふりをする理由にはならない。土地土地の文物も一様化し、自然の心象風景も開発しつくされ、人間の文化や心の豊かさが失われた果てに、いかなる愛国心が描けるだろうか。それは経済力や軍事力を誇るだけのつまらないお国自慢の類ではないだろうか。我々が後世に伝えるべき物語は、このような陳腐化した物語でよいのだろうか。あるいは、すでに失われ化石化した物語を、見て見ぬふりをしてさもあるかのように伝え続けるのだろうか。
 政局に近づきすぎると、思想は堕落する。日本人の美意識を、コンクリートが無神経にぶち壊すさまを見ても、それでも経済成長や外国の脅威があるからやむを得ないと思うのであれば、その人は政局に近づきすぎている。
 確かに国際政治は結局力と力の衝突である。しかし美意識は我々の実存の問題であり、何を誇りに生き、何を次代に残すかということである。伝統と国益は時に衝突する。伝統、あるいは国粋はかけがえのないものだ。我々はこのかけがえのないものを失って、他に何を守るというのだろうか。
 故郷とは単に思い出深いといった正の印象ばかり抱いている場所ではない。泥臭くて、もう帰りたくない、飽き飽きするような嫌気すら抱える場所でもある。それは自分自身に対する印象とも似ている。自己への嫌悪感と似たような感覚で故郷に嫌悪感を抱く。ただ、その嫌悪感を一生切り離せないと達観しているのである。その意味で、今の日本人には「故郷」があるだろうか。たまらなく愛しく、それでいて許しがたい故郷。そんなものは近代画一主義のもと、跡形もなく吹き飛んでしまったのではないか。欧州には今でもコンビニエンスストアの進出を制限し、店舗の深夜営業を禁じている所があるという。地元の商店街を守るためである。故郷を守る気もなく、安直に自由競争経済を肯定しているものにはその論理は想像できまい。自由競争によって、耐え難い故郷の喪失と、どこに行っても同じ風景の悪しき画一化がなされたのである。そのことへの痛みや憤りを持っているだろうか。自由競争社会は故郷に根ざした真の民族主義を破壊してしまったのだ。もしくは、今でも電灯を嫌い、ろうそくの灯りの中で生活するイギリスの伝統主義者をせめて嗤わないでいただきたい。
 それは世界単位でも変わらない。いまやアフリカにも高層ビルが立ち並ぶ時代になってしまった。「これが日本だ」と世界に発信しようとしても、思い浮かぶのは高層ビルとマクドナルドと…。どこの国でもあるものばかりになってしまった。もはや故郷は故郷性を失いつつあるのである。それに対して、鋭敏に感性を張り巡らせている日本人が何人いるのだろうか。
 故郷の喪失は世界大で見ても民族主義の喪失なのである。地球規模の画一化が米国の手によって異常なまでに進んでいる今日、民族主義は危機に瀕している。徳富蘇峰は「俺の恋人誰かと憶ふ 神の造った日本国」と詠んだ。そうした熱烈な民族主義は、もはや出現しないのだろうか。もっとも、そうした危機状況への反動として、各国で民族主義が強調され始められたということもできなくもない。移民への反発、高失業率がそれに拍車をかけていることは確かである。日本に限らず、各国の「極右」団体は移民の排斥を主張しているのもそのためである。その排斥された移民が、原理主義と結びつきテロ行為に走るという哀しい現実もある。しかしそうした民族主義は自然と結びつくものではなく、単に血縁でだけ結びつく関係である。あまりにも混淆した世界の中で「血」にしかアイデンティティを見出せないのは悲痛な事態と言わざるを得ない。

結論のようなもの

 志賀が火山に見出し、松本が海岸線に見出した日本の美。その他さまざまな人間が日本の国土、地理、風景に美を見出してきた。そこに私のようなものが付け加える余地などないのだが、ふと感想のように思うのは、日本の雑草についてである。私は植物に精通しているわけではないが、日本は多湿であり、四季も鮮やかであることで様々な雑草が生育しているということくらいは知っている。
 「雑草という草はない。必ず名前がある」という言葉もあるが、あえて私は「雑草」と呼びたい。名など知られぬ草木であっても、そこには生きる場所があるということだからだ。誰も気づかないような場所に咲く花であっても、片隅で懸命に生きる花を摘まない世であってほしい。現代ではどこもかしこもまるで花壇のように、「名のある」草しか生育を許さず、名のない雑草の生きる場所を奪ってきた。しかしそうした「名のある」草しか生きられない世界はきっと生き苦しいに違いない。私が都市部に住むからそう思うのだろうか。それとも、私が雑草を見つける余裕がないだけで、雑草は私の見えないどこかでちゃんと息づいているのだろうか。そんな気もする。
 気づけば「小利」に使役せられ、路傍の草花に心動かされるような日常を失っている。そんな日常を失ったとき、私の生命力の強さも失われ、生きるひたむきさを忘れ、ただこなすべきことをこなすことにばかり頭がいっぱいになっている。他人に怒り、絶望し、嘆くばかりで、己の弱さに目をつぶっている。それを文明のせいにするのは不遜な態度なのかもしれない。それでも、この世界ですれ違う人々に路傍の草花を眺める余裕があるようには見えない。そんな余裕があるならもっと働け、もっと稼げ、そうやって文明は発展してきた。人々の人生を、自然を、社会を、文学を置き去りにして。
 生きるのはしんどいことではあり、世間はせつなさに満ち溢れている。しかしどこに行こうとも生きられる。道端に雑草が生えている限り。

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◆今後の更新予定

 今書き進めている長編物のブログ原稿は以下の通り。

・陸羯南論―「自由」と「国際」に潜む絶望―

・伝統と信仰

・皇室中心の政治論

・蓑田胸喜『国防哲学』を読む

・秩序とは何か

・世界文明のために

・武士と商人

 やはりどうしても文献を多く参照するものは時間がかかる。引用するのは大変だし、そもそも文献を買い集めるのだって資金的余裕からつくらなければならない。
 愚痴めいたことを書いてしまったが、要するに反資本主義的内容ばかりになってしまっているブログ原稿を反省している。引用が少ないために書きやすいのだ。反資本主義もまた私の考えではあるのだが、そればかりに偏るのは問題だと思っているがなかなか改められない。次の投稿も、今の所ほとんどできていない「秩序とは何か」「武士と商人」あたりのほうが先に出来上がってしまうような気がする。

良心を問え―自主防衛論―

 平成二十七年の夏は暑い夏として人々に記憶されるだろうが、こと政治的にはどこか空々しく暗鬱で、喧しくも隔靴掻痒の感を拭えないものとなった。安倍内閣の提出したいわゆる「戦争法案」が、その主役である。
 さて、公の場でまつりごとを論ずるからには、私の今回の「戦争法案」に対する態度を明らかにせねばなるまい。私は「賛成でも反対でもない」である。旗幟を鮮明にするといっておきながらその態度は何事かとお叱りを受けそうだが、しかしどう考えても集団的自衛権を語る前提が欠けているように思われてならないのである。それゆえ、賛成派の意見も反対派の意見も、どこか空転したものになっているのではあるまいか。
 さきほど「戦争法案」という呼び方をしたが、この名称のセンスのなさには名付け親の感覚を疑わざるを得ない。この法案の成立により徴兵制になるといった軽率なレッテル貼りも含めて、本当に反対する気があるのだろうか。

 国会では、安倍内閣が提出した安全保障法案に伴い、論議が盛んに行われている。本稿でその細かい議論にまで踏み込むつもりはないが、日本の国防に関しては、何をおいても語られなければならないほど重要な問題であろう。だが、肝心の国防に関する議論が、どこか空転しているような気がしてならない。これに関してはある印象的な場面があった。衆院平和安全法制特別委員会における審議の際に、野党が「反対」のプラカードを掲げたのだ。しかしそのプラカードは、議長ではなく、カメラを向いていた。メディアを通じて流布された「戦争法案」という稚拙なネーミングといい、野党は本当に法案を阻止する気があるのか、疑問に思われたのである。「戦争法案」というネーミングにはとにかく戦争を恐れて逃げ惑っていればよいのだという卑怯さがにじみ出ている。自己利益しか考えられなくなった戦後の浅ましさがいかんなく発揮された言葉が「戦争法案」なのである。この論議には、日本が国家としてどういう態度を取るべきか、日本は世界に向けてどういう態度を取るべきかという態度が決定的に欠けている。
 かつて、太田光と中沢新一が『憲法九条を世界遺産に』という本を出した。太田や中沢が今回の法案に対し、どういう態度を取ったかを私は知らない。ただ、少なくともこの本で示した矜持は、「戦争法案」と言うレッテル貼りやなぜか委員会に関係のない議員が乗り込んで、議長ではなくカメラに向かってプラカードを掲げた野党議員の態度を許さないような気がしてならない。長いが引用する。

中沢 ただですね、こういう日本国憲法を守っていくには、相当な覚悟と犠牲が必要となるということも忘れてはならない。
太田 たとえば、他国から攻められたりしたときですね。
中沢 そうです。犠牲が出る可能性がある。理想的なものを持続するには、たいへんな覚悟が必要です。覚悟のないところで、平和論を唱えてもだめだし、軍隊を持つべきだという現実論にのみ込まれていきます。多少の犠牲は覚悟しても、この憲法を守る価値はあるということを、どうみんなが納得するか。
太田 憲法を変えようと言う側と、変えるべきではないと言う側、どっちに覚悟があるかという、勝負ですね。(中略)僕は、軍隊をもとうと言っている側の方が、覚悟が足りないと思うんです。それを強く感じたのは、イラクの人質事件です。(中略)実際に香田君が殺されたときも、自己責任だったと、国も言うし、国民も言った。自分の国は自分で守りましょうと言っている人たちが、自分たちの国民を殺されて、文句一つ言わないなんて、何が国防なのかと思います。そんな人たちが軍隊を持っても、戦争なんてできないと僕は思うんですよ。
中沢 平和憲法を守れと言う人たちのほうが、現実的だという人もいます。日本の軍隊を発動させたところで、どれほどの現実的な力を持つのかと。むしろ軍隊を出すことによって、戦争に巻き込まれていく危険性のほうが大きいという主張です。むしろ、軍隊を出すことによって、戦争に巻き込まれていく危険性のほうが大きいという主張です。しかし、僕はこの考え方も、覚悟が足りないように思えます。ことはそんなに簡単にはいかないでしょうから。
日本が軍隊を持とうが持つまいが、いやおうなく戦争に巻き込まれていく状態はあると思います。平和憲法護持と言っていた人たちが、その現実をどう受け入れるのか。そのとき、多少どころか、かなりの犠牲が発生するかもしれない。普通では実現できないものを守ろうとしたり、考えたり、そのように生きようとすると、必ず犠牲が伴います。僕は、その犠牲を受け入れたいと思います。覚悟を持って、価値というものを守りたいと思う。
太田 憲法九条を世界遺産にするということは、状況によっては、殺される覚悟も必要だということですね。
太田光・中沢新一『憲法九条を世界遺産に』144~147頁

 私は、憲法九条が彼らの言う「守るべき価値」に値するとはまったく思えない。だが、「守るべき価値」を設定し、それに殉じようという姿勢は素直に共感する。安倍内閣の安全保障法案に対する賛成・反対以前の問題として、「何が守るべき価値なのか」ということが問われなければならない。
 それは与党の側も同じで、今回の安全保障論議は、要はアメリカに追従する側面が強く、日本の属国化をますます強めるものだと言わざるを得ない。
 なぜ安全保障に関する議論は空転するのだろうか。それは日本の戦後史に由来すると考えられる。
 日本は敗戦後、米国による占領を受けた。占領政策の一環として「日本国憲法」が制定され、国防は「平和を愛する諸国民」、すなわち連合国、端的に言えばアメリカに委ねられることとなった。連合国は平和を愛する国民であり、日本のような好戦的な国から軍事力を剥奪すれば、世界平和は保たれるのだという、アメリカの独善的なイデオロギーを注入された。この占領政策はサンフランシスコ講和条約により終了したが、講和が結ばれた同日に、日米安全保障条約が締結され、米国軍が我が国土に駐留する事態は継続することとなった。米国にとっては、日米安保は日本の暴発を抑止する「びんのふた」とされ、敗戦によって注入された独善的なイデオロギーは見直されることがなかった。その後、日米安保は何度か改正がなされ、「日米同盟」とも呼ばれることとなったが、日本国憲法と日米同盟という同じ根を持つ体制が根本的に見直されることなく今日まで続いてきた。

 安倍総理は米議会での演説で以下のように述べている。

「日本にとって、アメリカとの出会いとは、すなわち民主主義との遭遇でした」
「焦土と化した日本に、子ども達の飲むミルク、身につけるセーターが、毎月毎月、米国の市民から届きました。山羊も、2036頭、やってきました」「米国が自らの市場を開け放ち、世界経済に自由を求めて育てた戦後経済システムによって、最も早くから、最大の便益を得たのは、日本です」
「こうして米国が、次いで日本が育てたものは、繁栄です。そして繁栄こそは、平和の苗床です。日本と米国がリードし、生い立ちの異なるアジア太平洋諸国に、いかなる国の恣意的な思惑にも左右されない、フェアで、ダイナミックで、持続可能な市場をつくりあげなければなりません。
太平洋の市場では、知的財産がフリーライドされてはなりません。過酷な労働や、環境への負荷も見逃すわけにはいかない。許さずしてこそ、自由、民主主義、法の支配、私たちが奉じる共通の価値を、世界に広め、根づかせていくことができます。
その営為こそが、TPPにほかなりません」
「親愛なる、同僚の皆様、戦後世界の平和と安全は、アメリカのリーダーシップなくして、ありえませんでした。省みて私が心から良かったと思うのは、かつての日本が、明確な道を選んだことです。その道こそは、冒頭、祖父の言葉にあったとおり、米国と組み、西側世界の一員となる選択にほかなりませんでした。
日本は、米国、そして志を共にする民主主義諸国とともに、最後には冷戦に勝利しました。この道が、日本を成長させ、繁栄させました。そして今も、この道しかありません」
「日本はいま、安保法制の充実に取り組んでいます。(中略)この法整備によって、自衛隊と米軍の協力関係は強化され、日米同盟は、より一層堅固になります。それは地域の平和のため、確かな抑止力をもたらすでしょう」
「テロリズム、感染症、自然災害や、気候変動――。日米同盟は、これら新たな問題に対し、ともに立ち向かう時代を迎えました。日米同盟は、米国史全体の、4分の1以上に及ぶ期間続いた堅牢さを備え、深い信頼と、友情に結ばれた同盟です。自由世界第一、第二の民主主義大国を結ぶ同盟に、この先とも、新たな理由付けは全く無用です。それは常に、法の支配、人権、そして自由を尊ぶ、価値観を共にする結びつきです」
http://www.nikkei.com/article/DGXLASFS29H1E_Z20C15A4M10600/

 長々と引用したが、この安倍演説がアメリカから自由・民主主義・法の支配という普遍的価値を教わり、冷戦に勝利した、という世界観によって成り立っていることは言うまでもない。これこそ日本国憲法と日米同盟が相互依存して成り立っている「日本国憲法=日米同盟」体制だ。安倍総理は「戦後レジーム」を打破するかのようなことを言っていたが、それはなんと「日本国憲法=日米同盟」の克服ではなく、それを黒船来航以来の国是にすり替えようという動きだったのだ。日米同盟は「希望の同盟」であり、その希望はアメリカが保障するのだという。ここまでの売国政権は、なかなか思い浮かべることができない。

 今回の「戦争法案」審議も、それがどこまでアメリカの要請によるもので、どこまで安倍総理の考えによるものかはわからないが、アメリカの意向が大きな影響を与えていると考えるのが妥当であろう。アメリカから押し付けられた集団的自衛権を歓迎する心理がそこにはある。

 だがここで私は一つの疑問にぶち当たらざるを得ない。そもそも我が国に、厳密な意味での「集団的自衛権」などありうるのだろうか。あるとすれば、それは「日本国憲法=日米同盟」体制の打破なくしては不可能ではないだろうか、という疑問である。
 一般的に集団的自衛権とは、ある国家が武力攻撃を受けた場合に直接に攻撃を受けていない第三国が協力して共同で防衛を行うことである。だが、個別的自衛権があやふやにされている国に、そもそも集団的自衛権など議論できるのだろうか。「日本国憲法」は戦力の保持を禁じており、それは様々に解釈改憲されてきたが、自衛隊を軍隊と呼びづらいことなど、自衛権があやふやにされていることは疑いない。岸内閣のときの日米安保は、米国は日本を守る。日本は国内の米軍基地を守るという奇妙な論理で「相互」に防衛する同盟であるとされた。これが先に挙げた一般的な集団的自衛権の定義とは違い、アメリカの武力の傘の下に日本が入る条約でしかないことは自明である。日米安保条約は岸内閣以降幾度も修正されはしたが、現在に至るまで根本的に日本がアメリカの武力の傘の下に入る体制は変わっていない。端的に言って、「個」がそれぞれ独立しているから「集団」といえるのであって、「個」がないなら「集団」もあり得ないではないか。日本の「集団的自衛権」についての議論は、議論を進めていくうちにいつの間にかアメリカの個別的自衛権の話になってしまい、日本はそれに巻き込まれるか否か、という話になってしまう。それは日本の個別的自衛権が不完全だからである。「戦争法案」も、日米にとっての「危機」とは何かはアメリカが判断するのだという。なんだ集団的自衛権じゃないじゃないか。アメリカの自衛権のお話に過ぎないじゃないか。
 問題は常に個別的自衛権なのだ。個別的自衛権が不完全な国が集団的自衛権を語っても、それはアメリカの個別的自衛権への迎合にしかならず、そもそも「集団的」ではないからだ。

 もちろんアメリカはこんな体制をボランティアでやっているわけではない。それはアメリカの極東政策に沿って行われているものであり、日本もこの体制を維持するために相応の代償を支払っている。「思いやり予算」のようなわかりやすい例ばかりではない。今安倍内閣が「戦争法案」を通す根拠として使われる「砂川判決」もまた、アメリカの圧力により行われたものであり、日米同盟に関しては日本の司法権の独立性さえも失ったことを示すものなのである。それを根拠に法案成立を進めようなど、この法案の売国的性格は推して計るべしと言ったところであろう。
 友好の美名をたてに、同盟相手から利益を掠めとるなど国際政治の常套手段であり、それを行われたところで今さら非難するにも値しない。問題は同盟の厚情と各国の思惑による好運にすがるよりない我が国の国家意志のなさの方である。

 自主防衛、祖国独立の意志こそ守るべき価値である。なによりもまず日本は自力で祖国を防衛する意志を示さねば話は始まらない。陸羯南は日本の自由主義の起こりを、勤皇の志士の愛国心の発露にみた。「ああ自由主義、汝は日本魂の再振と共に日本帝国に発生せしにあらざるか」(「自由主義如何」岩波文庫『近時政論考』90頁)。自衛権も同じである。祖国独立の意志を失った自衛権など強者への売国的阿諛追従にしかならない。戦争末期に竹槍で闘おうとした先人や、特攻で敵艦に突撃した先人を戦後の人々は嗤ったが、竹槍を嗤う心情からアメリカの庇護のもと平和を貪る心情までは一直線に繋がっている。仮令勝てなかろうとも相手に傷一つは負わせてやる、日本人の怖さを思い知らせてやるという感情こそが祖国防衛の源泉なのだ。自衛権よ、お前は愛国心が奮い立った時に、この日本に発生したのではないのかと、私も呼びかけたい思いで一杯である。いったい、いつになったら祖国防衛の展望は眼前に開けるのであろうか。

 私は昭和六十年の生まれである。私が政治というものがこの世で行われていることを知った時には、既に占領の終了は当然のことながら冷戦すら過去の出来事であり、ロシアをソ連と言ったら笑われる時代であった。にもかかわらず国内は相変わらず占領体制に端を発する主体性のない政治を続けており、平和の祈りは米国の核の傘のもと欺瞞的に繰り返し語られて来たにすぎないのである。それは、本音は米国の傘下より脱し厳しい状況に踏み出でんとする大望を「非現実的」とせせら笑う親米論者の陰湿さと性根を同じくしている。日本国憲法と日米同盟は二つでひとつであり、戦後の密教と顕教であろう。だが、何時までもこのような状況でいられるはずがない。問題なのは、何かが起こった際に日本独自の意志を示せないことにある。次代にこのような体制を残したままにしておいてよいのであろうか。

 地中にいるうちに地表がコンクリートに舗装され、地上に出られないまま生涯を終える蝉がいるという。日本を覆う閉塞感、行く先を阻む隘路は「日本国憲法=日米同盟」からなる戦後体制である。日本はこの戦後体制という分厚いコンクリートに阻まれ生涯を終える蝉となるか、それともコンクリートを食い破り、蒼天に躍動する龍となるか、僭越ながら諸兄の志を問う次第である。

 ここまで語りながら、私には自分がある種の空しさを雄々しい空元気で誤魔化してはいないかという感慨を押さえることができない。私のような意見は議会で一議席も占めてはいないし、今後このような議論が盛り上がる気配すらないのである。
 桶谷秀昭は以下のように述べている。
 「敗戦時の空白と寂しさがわたしに教えたものは、体制であれ反体制であれ、およそ支配イデオロギーはその中核に決定的な虚偽を隠蔽して、のさばるということである。そしてその虚偽を見抜くのは、すべての橋を焼き、己一個の生存の暗い根底に立ったときである。敗戦時の感慨は、国破れて山河あり、であった。戦後二十五年の今、国は復興して山河は滅びようとしている。公害だけではない。われわれの内なる日本の滅亡である。これがほんとうの滅亡ではないか。/わたしは今年の八月十五日も、雑炊をくらい、竹槍を削るつもりである」(『凝視と彷徨 上』254頁。/は原文改行)。
 私は政治家や自衛官に大きな期待を持つことはできない。権力が物事を解決するとは思われない。ただ私は今回の「戦争法案」の審議を眺め、「嘘だ」と呟くよりない。それは私の良心がそうさせるのである。
 権藤成卿は、理想の実現のために軍閥に期待すべしという自らの支持者に対し、政党や財閥が汚いのは無論だが、軍閥も汚い。綺麗なのは皇室とそれを戴く国民だけだ。私は唯綺麗なものが欲しいのだ、と述べた。自分が自分を支配しなければならない(自治)と述べる権藤に対して、支持者は新たに自分を支配する権力者を見つけたがっているだけだ。だが、己の良心は誰にも支配することができない。良心を信じず権力を信じる心から、米国、金持ち、与党、数の力などあらゆる強者への屈従が始まってくのである。

 日本はコンクリートに阻まれて身動きできない蝉に違いない。だがその蝉はそれでも活路を求めてコンクリートに皸ひとつでも入れんとする蝉である。そう信ずるよりない。この蝉の生きざまにしか、未来を託すべきものは見当たらないのである。