国粋主義と社会主義―『国体と経済思想』増補― 八(終)

 経済に係る世の問題は分配の問題だともいえる。社会における富をどう分配するのか。富を齎したものが多く受け取るのか。それとも社会の構成員が公平にその果実にあずかるのか。突き詰めればこの二つのどちらかに収斂される。また、今後得られるであろう富をどう分配するのかも含めて、このことは考えられなくてはならない。だが、そもそも「成果を分配できる」と考えること自体、個人主義が明確に確立していなければできるものではない。したがって分配以前に個人主義の是非をも問わなければならないのではないか。本稿ではこの個人主義の是非にまで踏み込むことはできないが、少なくとも個人を軽視するような社会はあるべきではない。だがそれは個人主義というイデオロギーの評価とは別問題であり、そのことを踏まえて検討されるべきであろう。

 経済がグローバル化している、と喧しく語られたが、実態はそうではない。グローバルを相手とする経済と、ローカルを相手とする経済に分かれていっただけのことだ。ローカルだから稼げないとか、遅れている、ということはない。地域で循環させたほうが効率的な経済圏、ビジネスモデルは確実に存在する。ローカル経済の影響は想像以上に強い。地方では今でも人不足である。人不足は高齢化とともに訪れており、儲けの大小にかかわらず起きている。アベノミクスの「成長戦略」と称するものが軒並みグローバルを相手とする企業向けであり、ローカル相手の産業に対しては放置している状況であるため、日本経済全体に対して効果を及ぼすには至らないのである。また、規制緩和の効果はすればするほど落ちており、成長戦略=規制緩和という発想自体陳腐化している。

 自由放任により経済が発展するなど空想に過ぎない。すでに明治四十一年刊行の山路愛山『現代金権史』においてすら、「政府の世話焼きは余計の沙汰なりと憤慨したる所にて、其実電信も政府に掛けて貰ひ、鉄道もこしらへて貰ひ、学校も政府の脅迫に依りて出来、銀行の営業振り、簿記法の記入方、乃至チョン髷を切るべきことまで政府の世話を受けて渋々進みたる人民が自由放任を口にしたりとて、それは親掛りの子息が贅沢にも親の干渉に不平を鳴らすに殊ならず」と揶揄されているのである(『明治文学全集35 山路愛山集』46頁)。自由放任などと主張しても、政府のインフラを使い、政府に教育された労働者を使っているなど政府にことごとく依存しているではないか。そんなのは親に育てられていながら親の干渉に文句を言っているのと同じだ、というわけである。

 私のことを左翼的だと思う向きもあるかもしれない。資本主義批判や会社批判に対してはそういう眼で見られたこともある。だが、国民の生活に思いをはせない愛国者などあり得ない。本当に日本と言う境界、日本人という所属を重んじるならば、生活に苦しむ同胞に対するまなざしがあってしかるべきだ。

 我々日本人にとっては、日本史こそ歴史であり、日本史以外の歴史は人格を形成するような重きを持つようなものではない。外国の知識も役に立つことは当然あるだろうが、それは参考意見でしかない。日本人の意識の核心を形成するものは、日本史に求められなければならない。

 「戦後思想を克服する」ことは重要だが、目的ではない。挑発的な言い草をすれば、そんなものは人生の目的たり得ないごくちっぽけなものである。日本の歴史、文化、伝統に参与し、その偉大な伝統に、自らも黄金の釘を打ち付けて次代に託すことこそ、人生の大目的にふさわしい。
 外国人が日本の文化をほめると、日本人は喜ぶ。その無邪気な性格は愛すべきであるが、しかしそれは外国の尺度で日本を計って喜んでいるのであって、それは要するに外国の礼賛に過ぎない。そのことに自覚的になったほうがよい。

 日本人が各人その美質を発揮するためにも、経済問題は克服されなければならない。この大目的の前では、右翼と左翼の違いは大した問題ではない。無論皇室に害をなそうとするような思想は到底受け入れることはできないが、そういったものを除外すれば、右翼と左翼には共通する点も多く、お互いの意見を参照し、より高めることができるように思う。

(了)

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◆今後の更新予定

 今書き進めている長編物のブログ原稿は以下の通り。

・伝統と信仰

・皇室中心論

・『昆虫記』余話

・陸羯南論

・地理と日本精神

・蓑田胸喜『国防哲学』を読む

・イデオロギーと思想

・世界文明のために

 『伝統と信仰』は書きかけの原稿で既に6万字を超えているがまだまだ先が見えない。まだあまりできていないそれ以外の論題のうち、短く終わりそうなものを先に回すかもしれない。

国粋主義と社会主義―『国体と経済思想』増補― 七

 働くとは、元来そういうものではなかったのではないか。社会を構成するのは、国民一人ひとりであって、決して会社や資本ではないはずだ。それらは、便宜的に置かれたものに過ぎなかったはずだ。ところが、その道具のほうに振り回されて、肝心の一人ひとりがその生活を失って働く道具のように扱われていることに疑問を感じなければならない。生産も消費も、企業あるいは資本にとっての利用価値で計られ管理され、それによって生活が左右されてしまう。こんなことはおかしいではないか。大事なのは各自の尊厳であって、決して会社などではない。

 我々の生活は日々何かと忙しいものだ。だがその忙しいことを誇る気にはどうしてもなれないのである。暇人を見つけ、それを「活用する」などと称して労働の場に引きずり出そうという大きなお世話を焼こうとするのが「忙しい」人間である。有限の人生の中で、そもそも何のためにせわしく飛び回るのか考えなければならない。しかし、それを考える余裕があるのは概して暇人の方なのである。せわしない生活には、自分の生活を自分で決められない苦しさがある。もちろん、自己決定など幻想である。しかしそれは、会社や資本に支配される生活を正当化するようなものであってはならない。平凡な人生を気楽とみなすのはどうなのか。志を果たし得ない人生は、ただ生活苦だけがある針のむしろかもしれないのである。いずれにしても、生活に自己決定権がないのは問題だろう。
 我々は自分の生活を自分で決めたいのである。自分の志、自分の運命を他人に押し付けられるのはうんざりである。資本が自ら肥え太るために使役されるのは、もうごめんなのである。

 かつて人々は賃労働者になろうとした。家族やムラの論理から逃れるためである。しかし、賃労働者になっても新たな拘束や服従を強いられるだけであった。自ら生産手段を持った農民や家族的自営業者は、子どもを会社員にさせようとする。それは子どもをプロレタリアあるいはプレカリアートにすることと同じである。自ら生産手段を持たない者はどこまで行っても奴隷同然である。ここまで言ってはいけないのかもしれないが、私は会社員にまっとうな幸せなど訪れるはずがないと思う。

 資本主義は、人々を結びつけていた伝統的で細やかな関係をことごとく金銭的関係に置き換え、敬虔な信仰、武士道の美学、町人道さえも無力化させた。医者、文学者、教師に対する人々の尊敬の念を剥ぎ取り、彼らを売上だけを気にする賃労働者にした。「つくる会」以降、教師を労働者のようにみなしたのは日教組によるものという決めつけがなされたが、彼らは幸いにも大した影響力を持っていない。むしろ資本主義的感覚の広まりのほうが大きいのではないだろうか。

 関税さえ廃止すれば物価は安くなる、すべての産業に利益がある、と言う人がいる。だがそうだろうか。貿易は国と国との均衡でもある。即ち輸出が増えれば普通輸入も増えるのであり、その逆も然りである。ところで、関税を廃止することで輸入を増やしたところで、我々は何を輸出するのだろうか。あるいは輸入するだけの購買力をどうやって維持するのだろうか。輸入品によって国内産業が駆逐ないしは衰退させられたとすれば、代わりに輸出するものも購買力も生み出せなくなるのである。もちろん机上の理屈では衰退する産業が出る分輸出産業が活性化するから問題ない、ということになろうが、実際問題は、人はそう簡単に別の産業に対応できるものではないし、輸出産業の側も他業種で仕事を重ねてきた人間を簡単には採用しない。
 グローバル化により、伝統的、民族的な産業は土台から切り崩され、遠く離れた国や風土の生産物によって日々の生活が営まれるようになってしまった。生活の利便性は確かに向上したかもしれないが、そこには民族の誇りはなく、連帯もなく、生き甲斐もない。

(続く)

国粋主義と社会主義―『国体と経済思想』増補― 六

 敗戦直後、失意の中から社会主義政党を結成しようと尽力したのは、後に社会党右派を率いる西尾末広であった。また、同時に岸信介と関係が深かった人は、西尾系の社会主義者になるか、岸と共に保守政党に合流するかの二つの道へ分岐していった。岸は戦時中の統制経済を主導したひとりであり、社会主義と国家主義の間には相互に通じ合う余地があった。社会党右派は後に民社党に分党することになるが、安全保障政策でも左派ほど頑なな態度は示していない。

 このように、国粋主義者も社会主義者も、その論じるところには共通する点が多かったことに気づかされる。一言でいえば、国粋主義も社会主義も、日本および日本を支える小共同体を守ることに力を注ぐ思想であった。ただし、『国体と経済思想』でも書いたように、社会主義者は外国勢力の指導に甘んじて反日的活動を徐々に行うようになり、国粋主義者は外国勢力と対抗するために国内の格差に対する対応は後回しにされる傾向が強まっていった。その結果が、今の右翼と左翼の分裂なのである。

 社会契約論という欺瞞に満ちた思想がある。社会契約論は、まず勝手に政府がない状態を妄想し、身体と財産の相互の保障を求めて政府を設立したのだ、と仮定する。そこには人々の共同性はみじんも想定されていないし、政府以外のあらゆる小共同体も無視されている。確かに個人という感覚のない社会は想像できないが、同時に社会のない個人というものも想定することはできないはずだ。小共同体を想定できない政府は専制的になり、各人は各人をあまりに縛り合うことにもつながる。
 統治には慣行が大きな影響を与えているが、社会契約論にはそうした慣行も無視されている。即ち社会契約に基づく政府は独裁的かつ資本主義的だ。財産の保護が政府の主たる役割だと言うのだから、社会契約論は資本主義とウマが合うのである。こうした社会契約的国家観から遠かった人物は、我が国では国粋主義者と社会主義者に多かった。冷戦的な右翼左翼の目線ではなく、彼らの考えを知ることはその意味でも有効だろう。

 競争は競争によって滅びる。労働者は、あるいは会社員は、と言い換えてもよいが、自分の人生、自分の生活、自分の運命をほとんど自分で決めることができない。休みの日も労働時間も仕事内容も、勤務先も、取引先さえもどこかの誰かが勝手に決めたものに左右されている。市場競争の結果、自営業よりも雇用形態のほうが「効率的」だと結論が出たのであるが、その結果、「各人が自由に競争できる」などという建前は全くの空語となった。自分自身の生活を、運命を、他の誰かに翻弄されて終わるのか。
 自己決定など幻想だと知っている。だがそれでも今の会社員生活はあまりにもその行動すべてを他人に支配されすぎている。あるいは「他人」という人物に支配されているのではないのかもしれない。労働力は商品である。してみれば資本の論理に支配されているのである。人を馬車馬のごとく働かせた挙句、そのことに感謝するよう強要しようという雰囲気が会社にはある。いかにも不気味であり、こういう感覚をとても肯定する気にはなれない。競争は、地位や貧富で人を差別しようとする人間の嫌な面と分かちがたく結びついている。会社という組織は、その競争の嫌な面を増幅する装置である。業務を指示監督する立場である以上に、上司を人格的に逆らい難い存在に仕立て上げようとする。そこは、一度目をつけられたら、後々までささやかれ、ことあるごとに嫌がらせを受ける密告社会である。人の足元を見ることにばかり長けていて、相手が逆らい難いと見るや途端に無法な要求を恥も知らず押し付けてくる。「結婚したり子どもが出来たら転勤させられる」という噂はその典型的な例である。「会社」とか「職場」という利益社会のもつ怖しさは会社員として働いたことがあるものは多かれ少なかれ自覚していることである。日本を愛さずして、地位やカネを愛する人が、この世には意外にも多いのである。また、自らが稼げればほかの連中はどうなってもよいと考える冷酷で残忍な人間が、会社の上層部を形成していることは覚えておいたほうがよい。いや、彼らの人格がそうだというよりも、彼らも何かに駆り立てられてそういう方向に走らざるを得なくさせられている。そのことが資本のもつ最大の問題であろう。
カネの為に身を屈する人間は、心の底ではカネを憎んでいる。手にした札びらは、屈辱の数でもあるのだ。

(続く)

国粋主義と社会主義―『国体と経済思想』増補― 五

 山路愛山は明治三十八年に発表した『社会主義管見』のなかで、国家を三階級に分類した。歴史は「国家と豪族と人民の三階級が(中略)或いは争闘し、或いは調和し、依つて以て共同生活の理想を実現せんとしつゝある動作の連続」であるとする(『明治文学全集35 山路愛山集』124頁。)。陸、山路両者の共通点としては、陸は「仁の政治」、愛山は「国家はひとつの家族」という儒学的な言い方で自分の政治思想を正当化したことである。両者とも西洋の動向に注目はしつつも、儒学的な有機国家の感覚を持ち、その言葉で政治思想を語っている。愛山は「尭舜の道も或は社会主義であると申しても差つかへない」とまで述べている(『明治文学全集35 山路愛山集』88頁)。
 また、『日本』関係者で社会主義を訴えた論説としては、長沢別天には「社会主義一斑」(明治二十七年三月~五月)がある。これは西洋社会の社会主義の流れを説明したものだが、社会主義を「破壊主義」とみなす見方に批判を加えている点で共通している(『明治文学全集37 政教社文学集』353~362頁)。内藤湖南は「社会主義を執れ」(明治二十五年五月二日)を書いている。これは内藤湖南が社会主義の採用を訴えたものだが、その中で「社会主義は進歩の標準を表する者、孟軻氏が所謂王者の道、而して西人の実に人類共存の理想とする所なり」と述べている(同353~362頁)。福本日南には「足尾銅山鉱毒事件」(明治三十年三月五日)がある。これは『日本』に掲載された論説であり、鉱毒事件の解決を政府の「処置」に期待しているものである(同262~263頁)。

 しかし、国家社会主義は論者によって大きくその思い描く意味が異なる思想でもあった。例えば林癸未夫は『国家社会主義論策』で、国家社会主義は国家主義を経済上に適用するものとし、「重要諸産業を国有とし、営利主義と自由放任主義とを廃棄して、国家統制経済を確立すべき」だとした。そのうえで「無産階級運動たるべきものではなくして国民運動たるべきもの」であり、「いやしくも国家に忠実であり且資本主義の弊害を痛感する者は、階級や職業の如何を問はず国家社会主義者となってその実現に努力するのが当然であるとした」(57頁)。そんな林の主張に反論したのが蓑田胸喜である。蓑田は林を含めた国家社会主義者を批判しているが、それによれば、「国民生活の安定、農村問題の解決、国防の内政的充実を思ふ一念発起より現役在郷の皇軍将士が敏感なる政治的関心を以て国家社会問題を研究論議することはさもあるべきである」としたが、「金権政党政治の弊害もそれはその形式制度によりも、天皇統治の神聖感を減失させる『多数神聖』『憲政常道』『議会中心』の『民政』主義の不忠凶逆思想の所産」であり、国家社会主義もその延長であるとした(『蓑田胸喜全集 第四巻』749~772頁)。
 ちなみに林は権藤の思想を無政府主義であり、国体を破壊する思想だと批判している。この認識においては蓑田と共通している。蓑田の権藤批判は第二節で見たとおりだ。

 大川周明は『国史読本』で、「日本を支配する邪まなる黄金の勢力を倒さねばならぬ。(中略)土地大名に代って起れる黄金大名が、天日を蔽う暗黒なる雲として、国民の頭上に最も不快に搖曳して居る」と論じている(大森美紀彦『日本政治思想研究 権藤成卿と大川周明』157~158頁からの孫引き)。大川は中学時代から幸徳秋水らの作る「平民新聞」の読者であった。しかし「平民新聞」の唱える日露戦争の非戦論には与しない考えを持っていたようである(大塚健洋『大川周明 ある復古革新主義者の思想』講談社学術文庫版40頁)。
 大川は社会主義を盲信した人物ではなく、「資本主義と社会主義とに共通する唯物主義を批判した」論客であった。資本主義も社会主義も物質的利害を人生最高のものと崇めている。両者は人間を経済的存在と見做し、物質的幸福を人生の目的としている。社会問題の解決するためには、そうした唯物主義こそ放棄されなければならない。人間は単なる経済的存在ではなく、国家もまた経済社会以上の存在である道義国家にならなければならないと論じた(同153~154頁)。ここに大川のアジア主義性が感じられる。
 ちなみに大川は、あるいは当時の学歴エリートの日本人は皆そうだったが、西洋的教養ばかり豊富で、日本やアジアに関する知識は後天的に獲得されたものであった。大川はキリストから法然・親鸞へ、マルクスから佐藤信淵へ、プラトンから横井小楠へ、エマソンから陸象山、王陽明へ、ダ・ヴィンチから岡倉天心へ移行したという(松本健一『大川周明』岩波現代文庫版76頁)。

 河上肇は『貧乏物語』で、貧富の格差を、(階級闘争ではなく)「奢侈の禁止」など道徳律に寄りかかって解決を目指そうとした。そんな河上は己の利害を顧みず、天下国家のために尽くす「志士」に憧れ、吉田松陰を理想の人物としていた。

 昭和に入ってもこの論理は健在であり、政府の弾圧により獄に入り転向した共産党員は、社会主義は各国それぞれの事情に応じて取り入れるべきであるという論理から国体を受け入れていった。

(続く)

国粋主義と社会主義―『国体と経済思想』増補― 四

 山川均は戦後、資本主義から社会主義への転換は、国民や民族という別個の政治、経済、文化上の単位を持っている以上、国ごとに行われるものであり、国外からの指揮命令(明らかにソ連を指している)を受けて動くようではいけない、と述べている(「共産党との訣別」『近代日本思想体系19 山川均集』349頁)。山川は、昭和二十五年時点で、ソ連社会における異常な格差、奴隷労働、特権階級の登場などを踏まえて、「国家資本主義」と呼んで批判していた(石河康国『マルクスを日本で育てた人 評伝・山川均Ⅱ』171~174頁参照)。
 竹内靖雄はソ連型共産主義を政府だけがものを生産して儲けることができる「国家独占資本主義」と呼んだが(竹内靖雄『経済思想の巨人たち』4頁)、まさに共産主義国家とは政府が市場を独占した姿に他ならなかった。ボルシェヴィキとは、もともとは「多数派」という意味らしいが、結局レーニンが作った体制は、少数の特権階級による支配でしかなかった。

 あるいは遡れば、社会主義はその唱えられ始めた頃は、後のように外国の意向に翻弄されることもなく、闊達に思うところを述べていた。たとえば徳富蘆花が「自家の社会主義を執る」と宣言したように各人各様自己流の社会主義を述べたり、社会主義の考え方を自己の思想を補強する材料として使おうとしたりした(松沢弘陽『日本社会主義の思想』4頁)。横山源之助が貧民窟のルポからその議論を開始させたり、幸田露伴が資本主義的風潮に対し江戸の職人気質を礼賛したりした。国粋主義もその一派であり、明治二十年代に条約改正や欧化主義に抵抗した国粋主義者は我が国で早くから社会主義に注目していた一群でもあった。国粋主義者の社会主義感覚はむしろ儒教の「仁」の政治の実行という意味合いがあった。「社会主義」は「個人主義」の対極とみられ、むしろ日本の国体に合うものと受け止められた。高畠素之がいわゆる社会主義から国家社会主義に「転向」し、上杉愼吉などと連携していくようになることを非難するような議論は日本の社会主義史を踏まえない見解だろう。もちろん細かい意味での意見の変遷はあったに違いない。だが、上杉が国家と社会は分離できるものではない、すなわち国家主義と社会主義も分離できず、社会主義的思想が国体の清華を発揮するのに適したものだ、と述べるとき(田中真人『高畠素之』203頁を引用者意訳)、それは明治の国粋主義者の社会主義論ととても似通っており、私には陸羯南の「国家的社会主義」が重なって見えてくる。
 晩年の上杉愼吉は、「貧乏でなければ本とうの愛国は出来ぬ」(『日本之運命』189頁)とまで言い、無産者を救済しようとする。「我が無産の貧乏人は、燃ゆるが如き愛国心を持つて居るけれども、今は上流の人々の我が儘に憤激して、動もすれば非国家主義に陥らんとする傾向になつて居る彼等は横暴なる資本家地主を恨むのである、不肖は其れは当然であると思ふ、而して資本家地主を悪むの情強きが為め、思はず社会主義に乗ぜらるゝのである(中略)経済上の不平苦痛は、彼等を駆つてそこまで連れて行くのである、気の毒なるは我が忠良なる無産の愛国者ではないか、其の心中の煩悶を酌んでやらなければならぬ」(同28頁)という。富豪は金儲けのために国家を使う。国家を害し、同朋を傷つけようとも、金の為なら何でもする。神ながらの日本は鬼畜の世界になってしまった、道徳も何もないではないかと嘆くのである(同37頁)。
 遡れば、幸徳秋水は社会主義を武士道の復活として述べていたというが、武士道とは志を立て、自分は商人とは違うという自覚を持ち、利益を超えた「国家全体の価値」を想い行動することであった。武士道は社会主義の始まりであると同時に国粋主義の源流でもある所以である。
 幸徳と国粋主義者の関係は絶えることなく続いていた。陸羯南は自らの新聞『日本』に、幸徳の著書の広告を出し、三宅雪嶺とともに足尾銅山鉱毒事件において、幸徳とともに田中正造を支持する言論活動を行っている。幸徳の遺著となった『基督抹殺論』には、三宅雪嶺が序文を寄せている。これは大逆事件で幸徳が逮捕されたのちに出版されたものであり、そこに序文を寄せるなど並の覚悟、交友ではできないものであろう。そこでは、幸徳は不忠不孝の名のもとに死に就こうとしているが、窮鼠と社鼠のいずれかを選ぶのか、と問われている。窮鼠とは追い詰められて決起した幸徳であり、社鼠とは社に巣食う鼠、君側の奸のことである。そのいずれを選ぶのか、と問うたわけである。
 幸徳は大逆事件を起したとされているが、皇室と社会主義は矛盾しないとも述べている。社会主義とは社会の平和と進歩と幸福を重んじる思想であり、そのために有害な階級を廃そうというものである。明治維新によって四民平等が達成されたことも、それにあたる。また、古来名君と呼ばれた人物は皆民のために尽くした人間である。故に仁徳天皇のように、民の幸福を自らの幸福とされた、祖宗列聖(歴代の天皇)の事績は、決して社会主義に悖るものではなく、むしろ社会主義に反対するものこそ国体に違反するのではないかと述べた(「社会主義と国体」『幸徳秋水全集 第四巻』、筆者意訳)。
 この幸徳の論理を、当時の社会に受け入れられるためのレトリックに過ぎないと思う人もいるかもしれない。そういう側面もあるかもしれない。だが、小林多喜二が仁徳天皇の大御心の話を母親に話していたように、必ずしも社会主義者が即マルクス主義による革命を考えていたとは言い切れない面もあるのではないか。
中村勝範『明治社会主義研究』によれば、幸徳はマルクスやクロポトキンを真に理解していたとは言えないという。そうかもしれない。幸徳の教養の基本は漢籍であり、西洋の理論は漢籍の教養による発想を理論化するのに参考にした程度だったのかもしれない。
 山路愛山も、社会主義を墨子の兼愛や堯舜の道にも通じるものとみており(「社会主義管見」『明治文学全集35 山路愛山集』46頁』)、明治社会主義の一つの特徴ともいえる。また、山路は陸についても、「三宅雄二郎氏、陸実氏も亦名を会員名簿に列し、殊に陸氏の如きは深き興味を社會主義に有し、其主宰する日本新聞に於て人間は自然の状態に満足して已むべきものに非ず。弱肉強食の自然的状態を脱し、強もまた茄(くら)はず、弱も茄はざる一視同仁の人道を立てゝ自然の運行以外に別に人間の天地を開くは是則ち社会主義の極意なるべしとの意を述べたり」(「現時の社会問題及び社会主義者」『明治文学全集35 山路愛山集』370頁)と回想している。この回想だけでも陸の社会主義理解に強い儒学の影響を見てとることができる。

(続く)

国粋主義と社会主義―『国体と経済思想』増補― 三

 そんな堺利彦の告別式に参列して貴族院で問題になった議員がいる。永井柳太郎である。
 永井柳太郎は幼少の貧苦から身を起した人物で、国民の生活を容易にすることは社会政策の最大の目的だという信念を持っていた。弱きもの、貧しきもの、虐げられたものに対し同情し、その苦境を放置している政府や社会に心から憤る人物であったという(永井柳太郎編纂会編『永井柳太郎』26頁)。同時に世界における白人の専制を打破する必要があるという思想にも立っており、アジア主義的な思想も持っていた。頭山満を「興亜の父」と称えている。頭山をたたえるような思想の人物が堺利彦の告別式に参列し、弱者救済を主張するはずがないなどというのは、冷戦期のつまらない「常識」でしかないことがわかる。
 永井柳太郎は中野正剛と共に並び称される存在で、政治的にも共に行動することもあったが、中野が民政党を脱した時、永井は途中まで同志関係にありながら結局脱党しなかった。
 戦時動員は国民化を強いるが、それに応じた人が一概に権力にこびた、堕落した人物だとは思わない。社会大衆党は昭和十二年の総選挙で大勝利し、議席を倍増させた。その後支那事変が激化すると社会大衆党は国体を強調するなど「右旋回」していく。それを堕落のように云う向きも当時も今もあるが、私はそうは思わない。永井も民政党を解党させ、大政翼賛会に合流させるのに大きな役割を演じていたが、永井は政党が選挙本位になる結果、財閥と結託して金権政治なることを憂いていた。また、永井は、アダム・スミスが各個人の利益を追求すれば、自然と利害関係が調整されて国家の利益となることを主張したことを批判し、各個人が最大の利益を追求しても国家の利益とは重ならないばかりか、むしろ国家の最大利益とは矛盾する旨主張していた(岩本典隆『近代日本のリベラリズム 河合栄治郎と永井柳太郎の理念をめぐって』263頁、註(6)~(13)参照)。
 永井や社会大衆党などは「自由」よりも「平等」を重んじ、それを達成するためには時に軍部と連携することも厭わない傾向があった。それは『暗黒日記』の清沢洌や「粛軍演説」「反軍演説」の斎藤隆夫など、戦前自由主義者と呼ばれている人が軍部に批判的である一方、往々にして経済格差の解消に冷淡だったことと好対照をなしている。

 経済格差や貧困に苦しむ同朋を救おうとする論調は左派的とみなされやすいが、階級闘争によってそれの解決を図ろうとするのか、それとも道徳や人々の連帯によって理想の社会を実現していこうとするのかによって、議論は大きく異なる。後者であった場合、左派調だという先入観を抜きにすれば、いわゆる保守派も共感できる議論となりうる。
 その代表例が賀川豊彦である。賀川は貧民窟で生活した体験を自伝的に『死線を超えて』という本にまとめて広くその思想が知られることになった。賀川は、階級闘争は民族自滅の近道であると考えていた。その思想からときに当時の無産政党や労働組合からも期待されているが、時期によって近づいたり距離を置いたり様々である。賀川は耶蘇教徒らしく人々の魂の救済を志したが、それは生活苦からの解放を後回しにすることではなかった。大東亜戦争には協力的で、皇室を敬う心も篤かった。
 余談ながら賀川豊彦には仏教や神道より耶蘇のほうが高尚であるといういやな側面も持っていたり、愛国者の割に国境なんかいらないと言い出したりするよくわからないところもある。

(続く)

国粋主義と社会主義―『国体と経済思想』増補― 二

 話を戻して、社会問題は格差によって生まれるのではなく、国民が格差を自覚することによって生まれるともいわれる。即ち社会問題は所得が改善すればよいというものでもなく、ひとえに満足感、公平感、納得感を社会にもたらすことが必要となる。社会問題は社会性の自覚ともいえる。故にその対応は難しいのである。

 堺利彦は日本の社会主義運動の嚆矢にあたる人物である。その堺は儒教や神道、自由民権思想が影響を与えたことを書き残している(『堺利彦伝』中公文庫版92頁)。堺は徳富蘇峰の『国民之友』と三宅雪嶺の『日本人』に影響を受けたことを告白し(同125頁)、陸羯南とも親交のある高橋健三に会い「その気品に打たれ」、国粋主義の集会に出るようになり、国粋主義の「一雑兵」となっていたという(同167~168頁)。
 堺は大逆事件が起こり社会主義が冬の時代に入った時に、売文社という会社を興して自ら商売に手を染めた。それを思想的矛盾だと謗るのは易しい。だが同氏の窮状を救うためにあえて批判されることをやる堺という人物の懐の深さを同時に感じることができる。堺の社会主義はいわゆるイデオロギー的にものごとを裁断する類の性格を持つものではなかった。
 明治四十年、片山潜が主催した茶話会のことを山川均が書き残しているという。そこでは今後の戦術上の方針として、直接行動か議会政策かが論点になった。いつの時代も威勢のいい言葉を述べたがる人間が多いもので、直接行動派が多かったという。そんな中で堺は、「私はあくまで正統マルクス派の立場を守る」といい、どちらの側にも与しないと宣言したという(黒岩比佐子『パンとペン 社会主義者・堺利彦と売文社の闘い』講談社版171頁)。堺のこの態度は「煮え切らない」と批判を集めたようだが、むしろ同士の顔を立てた発言ではなかったか。正面から直接行動を批判しては同士の顔に泥を塗ることになる。そこで暗にマルクスの名前を出すことで思想的研究が先であることを示唆したのではないだろうか。
 大正十二年、第一次日本共産党の綱領を検討する席において、ソ連から送られてきた指令は、「天皇制の廃止」であった。いわゆる「22年テーゼ」である。その後出された悪名高き「32年テーゼ」と並んで、日本の共産主義史において外せない事項である。その両者において、堺利彦ら古参党員は皇室を打倒しろと言われることに迷惑がっていたと言われている。谷沢永一の『「天皇制」という呼称を使うべきでない理由』によると、この「22年テーゼ」が示された際には、佐野学が国家権力と君主制の廃止を討議の対象としたい旨発言すると、堺が「いたずらに犠牲を多く出すことになるから」と難色を示したという。「この問題を討議するなら僕は退場する」とまで述べたという。この後関東大震災の影響と官憲の弾圧により第一次日本共産党はほとんど何もなさず解党する。第一次日本共産党の解党後、堺や山川、荒畑寒村などの古参党員は、各人紆余曲折ありながらも第二次日本共産党に参加しなかった。彼らは後に所謂労農派の主力となっていく。谷沢は言う。「堺利彦も山川均も成り行きで、日本共産党に入ったのだが、彼らを社会主義者たらしめている根幹の理論はすべてお手製であり、何処か他所で発生した聖典に拠るのではない。彼らは正真正銘made in Japanの主義者である。ゆえに、日本の特殊事情を体得しており、ことさらに天皇制打倒を叫ぶ必要を認めていなかったのであろう」(『「天皇制」という呼称を使うべきでない理由』122頁)。堺はあくまで官憲の弾圧を招くから、と言った運動上の理屈から反対したのであって、思想的理由から反対したのではない。だがそれは調整役に回ることが多かった堺ならではの老獪さであり、本音は思想的にも距離があったのではないだろうか。
 
 ただ、堺も無謬の存在ではない。堺は明治三十九年の電車賃上げ反対闘争に於いて、共に運動を進めていた山路愛山をはめるような行動をとり、立場を超えた運動の連帯を妨げるような行動をとっている。こうした行動により堺ら共産党一派は孤立を深めていくことにもつながった。

(続く)

国粋主義と社会主義―『国体と経済思想』増補― 一

※以前『国体と経済思想』という連載を行ったが、本稿は、そこで言い忘れたことやその後の読書により知ったこと、考えたことなどをまとめたものである。一部同連載との重複もあることをご了承いただきたい。

 戦後日本における価値観の中で、「経済成長」という言葉の占める位置は大きい。敗戦によりナショナリスティックな価値観の挫折を経た日本社会の空白を埋めたのは、「経済成長」という言葉であった。だが、ある程度経済成長を達成した今、それは国家社会を統合する言葉とはならなくなってしまった。むしろ、「経済成長」による国の解体が懸念される事態となったのである。

 「生存競争と相互扶助とは共に人類の本能であり、正義に対するあこがれと力に対する依頼は、われらの心の中に併存する」(石原莞爾「最終戦争論に関する質疑回答」『最終戦争論』中公文庫版72頁)。野放図な競争の放任は、社会を世知辛くさせ、行き過ぎた相互扶助は社会を弛緩させる。その中でいかなる社会を作るかは、我々に常に問われていることであろう。
 人間はほぼ例外なく利己的な存在だ。それを否定することはできない。利己主義が社会に害をなすことがあったとしても、その利己性を否定さえすれば物事は解決すると考えるのは安直すぎる。例えば商売は売り手と買い手の間に等価交換されたら成り立たない代物である。極端な話本来百円の価値しかないものを百二十円で売っているのが商人だからだ。カネ貸しに至っては百万円を貸し付けて百二十万円返済させる、改めて考えると理不尽極まりない仕組みで成り立っているではないか。だがこれを非難するだけでは全くの非現実的意見となってしまう。人には利己性があり、すべてのことがボランティアで済むとは考えられないからだ。では利己心を擁護していればよいのか。そうではない。現に世の中は公正を求め、麻薬を売れば犯罪となり、不当な手段で利益を得れば詐欺として捕まるようになっているではないか。マタイ効果とも言われるが、格差は増長する傾向にあり、富める者はそれゆえにますます富むようになり、貧しきものはそれゆえに一層貧しくなる。同じスタートラインからの競争、「結果の平等ではなく機会の平等を」などという言説は全くの空想である。しかしそれを空想であると認めた瞬間に、「ではどういう再分配を理想とするべきなのか」という公正性の問題が再び頭をもたげるのである。利己主義と公正の両立は社会に突き付けられた課題と言えよう。

 頭山満は高山彦九郎を豪傑とみなしていた、と松本健一は言う(『雲に立つ』19頁)。ここでいう豪傑とは、現代人が思い浮かべる豪快で強い人、という意味でもなければ、支那の原義のように才知あふれる人という意味でもない。たとえ志を果たし得ない場所にいたとしても、独り道を実践していく人のことだ。名利をもとめず、憑かれたように志の実現に邁進する「狂」の態度こそが豪傑の条件であった。この「狂」の感覚を松本は「原理主義」と呼ぶ。松本にとって「原理主義」とは、合理的で近代的な態度ではない、ある種の「狂」の感覚であった。そして松本は「右翼」にこの「原理主義」を見出した。右翼と左翼とはナショナリズムとコミュニズムではない。ある時期まで、右翼と左翼は分かちがたく一体であった。豪傑か否か、「狂」の感覚を持ち合わせるか否かだけが問題であった。冷戦が、「狂」の感覚を右翼と左翼に引裂いた。ここでいう「冷戦」とは、通例とは違い、ロシア革命間際に共産主義運動が盛んになった頃から始まる。
 「狂」の感覚、「原理主義」は社会の底流にマグマのように流れる土着的エネルギーの爆発を呼び覚ます。「原理主義」は文明への反抗である。あまりにも文明化された今日、「原理主義」はあまりにも忘れ去られてしまった。しかし、同時に冷戦が終わり引き裂かれた右翼と左翼が再び元の「狂」者に戻れば、あるいは近代思想からなる今日の堕落と利益社会のはびこりを改めるきっかけとなるかもしれない。

 中江兆民はルソーの社会契約論を日本に紹介した人として知られるが、その思想は儒学をもとにした理想的道徳を現代によみがえらせようというものであった。中江と頭山は交流があり、見解を同じくすることもあった。頭山を右翼の源流、中江を左翼の源流のように言われることもあるが、その「源流」は分かちがたいほどに共通している。

 木下半治『日本国家主義運動史』によれば、内田良平の黒龍会は労働宿泊所を設けたり、「自由食堂」を作るなど社会事業も行っていたという(慶應書房版10頁)。同書はこのほかにも、大川周明を会頭とする神武会が「一君万民の国風に基き私利を主として民福を従とする資本主義経済の搾取を排除し、全国民の生活を安定せしむべき皇国的経済組織の実現を期す」と謳っていること(99頁、旧字を改めた)や、石川準十郎の大日本国家社会党が「我等は現行資本主義の無政府経済組織を以て現下の我が国家及び国民生活を危うする(ママ)最大なるものと認め、公然の国民運動に依りこれが改廃を期す」と謳ったこと(242頁)など、国家主義団体が資本主義による格差に対抗しようとしたことが多く記されている。それこそが戦前昭和の「国家改造」の内実であった。

 現代、いわゆるカイカクだなんだと言ったところで、それはせいぜい商売の拡大に過ぎない。商売のために国の歴史や国策の自主決定権を明け渡すなど正気の沙汰ではない。それはただの無秩序でしかない。戦後の変革論はことごとく商売の為であった。即ち私利私欲の拡大であった。消費空間が演出する差異などちっぽけなものだ。しかしこの手の差異化に振り回され続けてきたのも戦後史であった。構造改革の騒ぎはその典型であったが、基本的に国家観を見失った戦後日本そのものが商売と恋愛のことしか考えられない、典型的な消費者社会である。余談ながら木下半治の戦後の右翼研究の著作は教条的に裁く傾向にあり、あまり得るところが多くない。

(続く)

企業経営者の世襲について

 大塚家具の騒動の際には、あまりにも創業者一家のことばかり考えているので批判する側に回り、織原さんとニコニコ生放送も行った。創業者一家が自分のことばかり考えている例は他にもある。例えばパナソニックでは、松下幸之助が細かい人事にまで介入し、ここも親子の対立(パナソニックの場合娘婿だが)があったために、人事がゆがめられ、組織風土が荒廃してしまったのである。この辺りは、岩瀬達哉『パナソニック人事抗争史』に詳しい。創業者一家の内紛が会社の人事抗争にまで及ぶのは、大塚家具ばかりではない。
 しかし、こうした一部例外を除けば、基本的に私は企業経営者が創業者一家などで世襲されることに肯定的である。

 資本主義が進めば進むほど、企業の寿命は短くなる。競争が厳しくなればなるほど、市場のニーズは多様化し、ニーズ自体の変化も激しくなるからだ。
 企業は資本主義の重要なプレイヤーであるが、人々の生活を担う機関でもある。企業の寿命が人々の労働可能年齢より短くなれば、様々な会社で勤めなければならず、人々の生活は不安定化する。雇用を維持することは企業の大きな社会的責任でもある。

 企業寿命を延ばすためには、自社の利益だけであなく業界や社会全体の利益を考えることが重要だ。自由競争じゃないかといって、利害関係者に配慮しない激しい競争は社会に害をなす。むしろ、お互いに利益があるような関係の構築を目指すべきであろう。競争が切磋琢磨ではなく淘汰となった時、社会は息苦しいものとなる。

 本題に戻って企業経営者の世襲についてである。
 世襲の経営者は、業界や日本社会など、広くて時間的に長い視野で物事を考えることができる。自分の息子や娘などに、なるべく良い環境で引き継がなければならないからだ。サラリーマン社長は大概不文律的に任期が決まっていることが多く、長期的な視野で考えることは本人の利益にならないことが多い。短期的に利益を上げることに目線が向きがちになる。

 経営者は天下りで決まる場合がある。
 天下りは決して官僚だけの事象ではない。民間どうしにおいても、金融機関やメーカーなどの取引先から経営層が送り込まれることは決して珍しいことではない。
 この天下り社長が、出身元の方向ばかり見る(ことを求められる)人物だった場合、企業風土は一挙に荒廃する。出身元のために無茶をするのは大概この類であろう。

 ところで今、(倒産ではなく)廃業する企業の割合が高止まりしている。原因は高齢化で、中小企業の経営層が高齢になって体が思うように動かない状況の中で、引き継ぐ相手も見つからず、大きな借金等もないうちに廃業を選ぶのだという。日本の企業の9割は中小企業だが、特に小規模の企業がこのように廃業という道を選ぶのは悲しいことではある。利益がなかなか上がらない企業は、世襲であろうとそうでなかろうと、引き継ぐ相手すら見つからないという世の現実である。決して創業者一家だから甘い汁を吸っているわけではない。

 このブログでたびたび書いてきたように、資本競争そのものの問題点も見過ごすわけにはいかない。だがマルクス主義のように悪辣なブルジョワジーを除けば問題が解決するかのような短絡的な発想は誤りである。市場の側面と社会の側面、両面から考えなければならないのである。