平田篤胤神学と農業、日本文化

インターナショナル、グローバルなものにろくなものはない。故郷を失い、断片化したものからは真に深いものは生まれてこない。「技術革新」と「効率化」は文化や人間性を緩やかに破壊する。そして一度破壊されてしまえばそれはなかなか元に戻らない。

日本人としての中心を己に構築しなければ、異国の文明にたぶらかされることになる。中心さえ確立していれば異国の文明はむしろ自国文化を進歩させる糧にもなりうる。
平田篤胤がキリスト教からインスピレーションを得て自身の教学に活用していたことは有名である。それまでの国学と違い、死後の世界、そして人間存在を語ることを目指していた篤胤の国学にとってキリスト教の存在は大いに刺激になったのであろう。
篤胤は日本神話に「青人草」を見いだした。人民もまた神々から生まれたものだという。この篤胤神学は決してご都合主義的に人民を見だし語ったのではないことは、篤胤門下から生田万、佐藤信淵、宮負定雄ら民政を重んじた人々が続出したことからも伺える。篤胤は生田万の過激に走る性質をいさめつつも、いざ生田万が決起を起こすとその志に共感し、生田万を崇高だと称えている。
篤胤は宣長の死後の門人と称したが、宣長以前の国学とは一線を画しているようにわたしには思える。宣長以前の国学は幕府関係者などにパトロンを抱えたエスタブリッシュのための学問だ。篤胤は国学よりも前に八歳から崎門学を学んだ人物で、篤胤の国学を支えたのは地方の神主であった。国学は篤胤を経てはじめて土の匂いのする学問となった。
日本は泥の文化の国である。豊葦原瑞穂国という名前からもわかるとおり、葦や稲が茂る国であった。高地など稲作にむかない土地では、同じイネ科の粟などを育てた。社倉義倉で米や粟を備蓄したのは、もちろん災害に備えた非常食といった実用面もあるが、それだけでなくさまざまな土地の神々の恵みをお供えし、人々に放出するという文化共同性の証でもあった。
欧米には雑草という概念が薄い。日本の高温多湿な風土は、雑草生い茂る風土でもある。そういう意味では雑草は農業の足枷でしかないはずだが、日本では「雑草文化」「雑草魂」などと良い意味で使われる。篤胤神学の青人草概念と対比しても興味深い。日本では、神も人も自然の一員なのである。それは日本人が長年の歴史のなかで培った文化であるが、自覚的に論じたのは篤胤神学が最初であろう。
近代文明は土をコンクリートやアスファルトで覆い隠し、日本人が培った文化に基づく生活を贅沢なものに変えてしまった。わたし自身近代的生活にすっかり染まってしまっているが、もはやよほどの金持ちでもなければ古き良き伝統に基づく生活を送ることはできまい。それこそが近代の問題点である。
大嘗宮が金銭的問題から茅葺きではなく板葺きになってしまったが、われわれが古来の生活を捨ててしまっているからこそ、茅葺き職人が少なくなり、高くつくようになってしまった側面を忘れてはならない。
日本文化は、あるいは皇室も神道も五穀を抜きにして語ることはできない。農業を大規模化、効率化することしか考えていない現代農業政策で果たして日本文化は維持できるのか。われわれに問われているのはこうした問題なのである。

吉田神道と垂加神道

■吉田神道の力を強めた「諸社禰宜神主法度」
 徳川幕府においては、吉田神道の力が非常に強まった。大きな転機となったのが、幕府が寛文五(一六六五)年に発布した「諸社禰宜神主法度」である。
 この法度によって、吉田家が神職管掌の根幹と位置づけられ、官位のない社人は必ず白張のみを着用するものとし、狩衣や烏帽子などの着用には吉田家の許可が必要だと定められたのだ。
 近世において、吉田家は神職の家元(本所)として、吉田家と競合していたが、この法度によって、吉田家が地方の大小神社を組織化する上で極めて有利になった。しかし、出雲大社、阿蘇宮、熱田神社など地方大社で、この法度に対する反発が広がった。
 では、いかにして吉田神道はこうした特別の地位を得るに至ったのだろうか。吉田神道の大成者として知られるのが吉田兼倶である。彼は、永享七(一四三五)年に卜部兼名の子として誕生した。
 兼倶は卜部家の家職・家学を継承し、「神明三元五大伝神妙経」を著して吉田神道の基礎を築いた。応仁・文明の乱(一四六七~一四七七年)後の混乱時に、斎場所を京都吉田山に再建し、足利義政の妻日野富子や後土御門天皇(在位期間:一四六四~一五〇〇)の支持をとりつけた。
 また、兼倶は『神道大意』などが自身の家に伝えられたものだと主張したり、伊勢神宮のご神体が飛来したとするなどして、吉田神社の権威を高めたのである。堀込純一氏は以下のように指摘している。
 「神祇官伯家の白川家が衰退する戦国初期には、吉田兼倶が吉田神社に大元宮と称する独特の神殿を建て、ここにすべての天神地祇、全国三千余社の神々を勧請し、神祇管領長上などと自称して、神号・神位の授与や神官の補任裁許などを始めた」(堀込純一「藩制の動揺と天皇制ナショナリズムの起源⑭」)
 「神号・神位の授与」は、宗源宣旨として確立された。宗源宣旨は、諸国の神社に位階、神号、神職に許状を授けるために吉田家から出された文書である。 続きを読む 吉田神道と垂加神道

垂加神道の「熱田之伝」

 垂加神道は、宝剣伝に附随して「熱田之伝」を説いた。
 尾張の国名と熱田社の土用殿とについて特殊の意義が込められているとの説である。『諸伝極秘之口授』には、以下のように書かれている。
 「尾張ハモト宝剣ノ御鎮座ニヨツテ付タ。則尾張ハ尾ノ針ト云コト。熱田ハ夏田ノ訓、此剣ノ納テアル御殿ヲ土用ノ御殿ト云。コレハナゼニナレバ、金気ヲ克スルモノハ火、ソレデ火剋金ヲ恐レタモノ。土用ノ御殿トイテモ火生土、土生金ト土カラ生ジサセル様ニト云コト。夏ハ火、田ハ土ユヘ熱田ガ夏ノ土用ト云コトニナル。則夏越祓、アレガ夏カラ秋ヘウツル処ノ火剋金ヲヽソレテ、スガヌキノ輪ヲコシラヘテ南カラ中ヘハイリテ、ソシテ西ヘヌケル。コレガ火生土、土生金ノ行ヒ。ソレデ人デモ金気ノトロケタ時、リント敬ムト気ガ立テクル。兎角金気ハ土カラデナケレバヲコラヌ」
 松本丘先生は、〈尾張の国号は大蛇の「尾ノ針」、即ち宝剣の鎮座に由来するものとし、それを奉祀する土用殿の語義も、五行説を用ゐつつ敬の根基となる金気に結び付けて解釈するものである〉と述べている。
 素戔嗚尊の帰善と宝剣の出現の解釈同様に、熱田之伝にもまた吉川神道の影響が窺えるが、松本先生が指摘するように、垂加神道においては、土用殿についても素尊の敬に引きつけて説かれており、より倫理的傾向を強めている。

素戔嗚尊の帰善に敬(つつしみ)を読み取る垂加神道

 素戔嗚尊は多くの乱暴を行ったため、天照大神が怒って岩屋に隠れ、世界は暗黒になった。神々は素戔嗚尊を高天原から追放した。出雲に降りた素戔嗚尊は、八岐大蛇を退治し、奇稲田姫を救った。大蛇の尾から得たのが、天叢雲剣である。
 「素戔嗚尊が『清々之』の境地に至られたことと宝剣の出現とは深い関連がある」とする山崎闇斎の説は、忌部正通の神道説や吉田神道の説とも共通する。松本丘先生は、忌部正通の『神代巻口訣』に、「素戔鳴尊、悪極まりて髪を抜き手足の爪を抜きて以て贖ひ、逐はれて降り、悔改めて善心を発し、爰に天下の悪を止め大地を亡す。(中略)尊、悪行有りて善に帰す。故に剣を以て剣を出す。(原漢文)」とあることを指摘する。
 また、吉川惟足の『日本書紀聞書』にも以下のように書かれている。
 「土用の御殿めうき天下になし。此神剣に付て、土金の相伝ある也。素戔嗚尊の曰く、是あやしき剣也、吾私におけらんやうもなしとて、天照大神へ献上なされる。天照大神に上らるゝこと、御心の善に成玉ふしるし也」
 松本先生は、「闇斎は、惟足を通じて吉田家の説にも益を受け、宝剣説を語つてゐたものと考へられよう」「闇斎は先行の諸説を参考しつつ、素尊の神徳と神剣との関係を明確にし、それを神道説の奥秘の一つに据ゑたのであつた」と指摘している。
 そして、素戔嗚尊の帰善に「敬」(つつしみ)を読み取る点が、垂加神道の特色である。
 闇斎歿後十数年後に成ったと考えられる『諸伝極秘之口授』には、以下のように書かれている。
 「コヽノ伝ト云ハ至(レ)尾剣少缺ト云ガ伝ゾ。素戔嗚尊コレニヨツテ清々之徳ニナラレタコトガ此伝デ、宝剣ノイワレ云コトハナニモナイ。(中略)雨風ニ吹ウタレテ辛苦降矣トアル。辛苦ノ字ガ大事。ソコデフツト本心ガ出テアヽ我降テハ皇統ノ御子ノセンギスル者ガナイガト気ガ付テ天へ登テ皇統ノ吟味ノ有ト云ハ素尊ノ大ナル気質ノ変化ゾ。段々気質ガ練レタユヘ敬ノ功ヲモツタモノ。ソレユヘナニノ苦モナク大蛇ヲ退治ナサレ、既ニ大蛇ノ頭不(レ)残キラレタ。然シナガラ加様ナ岐蛇ジヤニヨツテ少ク残テ有テモ又何変モ知レヌユヘ寸々ニ斬タ。コレモ皆敬カラヲコツタコト。コレホドニ敬ノ工夫ヲ用ラレタニ一心安イ尾ニ至テ剣刄缺タ。ソコデ素戔嗚尊ノナニカサシヲイテサテモ敬ト云モノハ極リナイモノ。最早コレデヨイト云コトハ云レヌモノジヤト云処デトント敬ノ至極ヲ自得サセラレタ。コヽデマ一ヘンノ敬ヲ得ラレタ処デ遂ニ清々之ト云場ヘ至ラレタゾ」

年功序列について

経団連もトヨタも「年功序列の維持は不可能」だというようになってきている。
だが、欧米でも年功序列終身雇用というほどかっちりした仕組みはなくとも、高年齢者の雇用はある程度保護され、首になりにくい状況となっている。
国民の大半は凡庸で、そもそも仕事なんか生活に支障がない範囲でしかやりたくないと思っているものだ。スキルアップの意欲に溢れ、より利益をあげるために寸暇を惜しんで働く人などごく一部である。それを失業と賃下げの恐怖で無理やり働かせてきたのが、資本主義の偽らざる姿である。もちろんこれは年功序列だろうがそうでなかろうが大同小異だ。しかしそのなかでもとりあえず凡庸な人間でもそれなりにやっていれば家族を養えるだけの収入を得ることができる雇用を確保することは重要だ。
ようするに民政とは、こういう凡庸な人間でもいかにその能力を発揮してもらえるだけの環境を整えるかだ。それは稼いでもらいGDPを増やしてもらうというだけでなく、子供を育ててもらうことなどあらゆることを含めた総合的見地から考えられなくてはならない。

それを資本の論理に委ねればすべてうまくいくなどと考えるのは妄想である。なぜなら資本の論理では家事や子育て等直接カネを稼ぐ行為ではないことが軽んじられるからだ。
資本の論理に委ねた社会とは、1%が残り99%の富を独占する奴隷社会である。それでもよいなどと考える下劣な輩とは根本的に相容れないのだ。
解雇規制があるから経営を圧迫するのだとか(本稿とは関係ないが)法人税が高すぎるとか、そんな寝言に耳を貸す必要はない。そんなのはサラリーマン経営者を甘やかしているだけだ。社会的責任を放棄した企業に未来はない。

土民思想とはなにか

石川三四郎『農本主義と土民思想』には次のような一節がある。

土民は土の子だ。併しそれは必ずしも農民ではない。鍛冶屋も土民なら、大工も左官も土民だ。地球を耕し――単に農に非ず――天地の大芸術に参加する労働者はみな土民だ。土民とは土着の民衆といふことだ。鍬を持つ農民でも、政治的野心を持つたり、他人を利用して自己の利慾や虚栄心を満足するものは土民ではない。土民の最大の理想は所謂立身出世的成功ではなくて、自分と同胞との自由である。平等の自由である。

石川三四郎は農本主義と土民思想を対比的に捉えている。それ自体は石川の思想を考える上では重要なのだろうが、ここでは措く。
農本主義は農家の圧力団体的思想ではなく、むしろ農を中心とした自然と共生する生活を通して、競争と利欲にまみれた世界からの脱却を目指したものだ。その意味では確かに「農本主義」というより「土民思想」というほうが分かりやすい。
さらに、風土論も加えられたらいうことない。国固有の風土、文化、土着に基づく思想こそ必要だ。